Souvenir
夕陽が部屋に満ちている。畳も障子もあかく染まって、色硝子を透かして見ているみたいに、ちかちかとまぶしかった。
万斉はサングラスを探したけれど、どこかへ放ってしまったらしく手元には見当たらない。
すこし体を起こす。布団の隙間から風がひゅう、と滑りこんだ。晋助はうつぶせになって眠っている。包帯がほどけかけて、黒い髪がくしゃくしゃに絡まっている。
ああ、と万斉はため息をついた。幸福さと苦しさとはがゆさの混ざったため息だった。
「ごめん、晋助」
ゆっくりまばたきをして、布団から抜け出す。黒縮緬のシャツをはおり黒檀のちいさな釦をとめると、下着と墨色のトラウザーも身につけた。靴下は片方だけしか見つからなかった。
昨夜は交渉を済ませ、その足でおもての仕事に向かった。昼過ぎに改めて顔を出したら、たまらなくなってそのまま、抱きしめた。情けないことに、ほとんど覚えていなかった。靴下もサングラスも、だから、見つからない。
交渉は首尾よく運んだ。江戸では手に入りにくい武器や火薬の類も、これでしばらく不自由することはないだろう。
そろり、わずかに障子を開ける。思ったよりも空は曇っていた。幾重にも折り連なった雲のふちだけが、燃えるように赤い。火にかざした文がじりじりとかたちを失っていくかのごとく、頼りない、寂しい夕空だった。
帰り道をいそぐ海鳥が、すい、と横切ると緑の葉が一枚落ちて、風に消えた。
胸のかくしに、かさりと動くものがある。ゆるやかな字で時間だけがしるされた、文ともいえないただの紙切れ。
仕事の用事があるときに、決まって届けられる報せだった。
うまくいけばいくほど、万斉は不安になった。次の文はこないかもしれない。消えてしまうかもしれない。終わってしまうかもしれない。
晋助。声にはしないで、こころで呼んだ。ごめん、ともう一度謝った。
明日はもう、会えなくなるかもしれない。
かようなものは意味がない。万斉は知っている。過去も先もないからこそ、こうして今、ふれていられる。
報せへの返事はもちろん、ゆるされなかった。なんのために、と切り捨てられて、そのままだ。
晋助は何も受け取らない。拙者はだから、何も奪いたくない。
ふれていられるときだけが、たしかだった。真実だった。それゆえ求めてしまう。体を、かたちあるものを、目に見えるものを。
もしも終わってしまえば、今は跡形もなく消え去って、きっと何も残らない。それでいいと思う。しかし、それではすこし、寂しい。
赤く輝いた空が、ほの暗い夕闇になって障子を染めている。青とうす紫の帳。
万斉は、欲望を憎んでいた。求めることをやめたいと思っていた。
たとえば雨のように際限なく与え続けたい。海のように限りなく包みこみたい。だけど、その願いは奪うことによく似ていて、行き止まりになってしまった。
恋はなんと愚かしいものだろう。好きでいることさえ、こんなにも、わがまま。
「捨てろよ」
肘をついて、布団のなかから晋助が言った。まだぼんやりした目をしていた。
「刻限くらい、覚えられるだろう」
「いや、記念でござるゆえ。これは、とっておく」
「記念? なんの」
求めることをやめたい。期待を捨ててしまいたい。だけど、だけどもしも先があるのなら、すこしでも明日があるのなら、求め合いたい。与え合いたい。
「昨日はちょうど、拙者の、誕生日でござった」
口にしてから、ばかばかしいと思った。祝ってほしかったわけではない。ただ、ひとつでも自分のことを知ってくれたらうれしいと願ってしまった。
「へえ、そうかい。誕生日。昨日は、何日だったか」
「はつか。五月、二十日でござる。いやでも、別段意味はない。ただ、思い出しただけでござるよ」
万斉はうつむいて、照れくささを隠した。布団の端にサングラスをようやく見つけたけれど、遅かった。
「いくつになった」
忘れた、と返す。晋助は、ふふ、と笑った。
「晋助は、いつでござるか。できればお祝いをしたい。今日の礼に」
「なんにもしちゃいねえよ。知らなかった」
いつ、と返事をせかした。
「八月」
ぽつり、落ちる声。たとえば、雨だ、と言うような、そっけない声だった。
「八月の」
「いい。俺のことは、いい。それより、誕生日なら祝いをしねえとなあ」
夜着のあわせをぞんざいに整えて、気まぐれみたいに言った。
万斉は、晋助のこめかみのあたりにくちづけて、やわらかく抱きしめた。
「しばらくこうしていよう」
「欲のねえやつだな」
「知ってくれただけで、充分。涙が出そうでござる」
「大袈裟だ」
晋助は黙って、いつかのむかしの今日を思っていた。届かない日のことを思うとき必ず痛むところは、今はすこしも痛くならないで、かわりにほんのかすかだけれど、あたたかくなった。
何も知らない。生まれた場所のことも、母や父のことも、ちいさい頃のことも、何も知らない。それでも、その日の続きにあろう今、こうして向かい合わせにいる。こそばゆいような、やわらかいような、胸の温度がまたたいていた。自分のむかしは遠いけれど、晋助は今、やすらかだった。
「おめでとう」
ぎこちなくなる気がしたから、さっきは言わなかった。それでも言ってみると、思ったより声はすんなり響いた。おめでとう。
「万斉、誕生日、おめでとう」
「はは、こんなに、うれしいとは」
万斉はくしゃりと目を細めた。あっさり簡単に満たされて、すこし戸惑っている。好きということの苦しさと幸福をもしも秤にかけたなら、苦しさの方が重いだろう。しかしそれさえうれしいのだから、こころを占める息苦しさまで愛おしいのだから、まったく手に負えぬ。こんなわがままを、どうか、ゆるさないでほしい。
求めてしまう。愛してしまう。ああ恋はなんと、愚かしい、幸福なものだろう。
おわり
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Happy Birthday! Bansai(2010.05.20)
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