いい一日になりますように
あと二十四分。
左手を振って使い込んだ黒い革帯の腕時計を一瞥すると、土方は風のない夜を駆けた。
散々だった一日の終わり際。
帰ったら熱い風呂に入って、すぐにでも寝てしまいたいような気もするけれど、それじゃああまりに惨めだ。
だからこのまま今日を終わらせるわけにはいかない。
土方は屯所の玄関を通らず縁側を抜けて、隊士の宿舎まで電光石火の勢いで走り抜けた。
「あ、おかえんなさい」
「悪かった。約束、反故にしちまったな」
十二時、三分前。ようやく山崎の部屋までたどり着いた土方は、肩で大きく息をした。
「いいえそんなの、いつでもいいですよ」
明日の夜、一緒にごはん食べに行きませんか。俺がごちそうしますから。
山崎は昨晩そう言って土方を誘ったのだ。ちょっと緊張した面持ちと期待に満ちたまなざしで。
「気にしないでくださいね」
笑ってみせた山崎がどうにも残念そうな顔をしていたので、土方はいたたまれなくなった。
けれど同時に、嬉しくもなった。
もうめでたくもなんともない歳の誕生日。
さっきまでぼろ雑巾のような気分だったのに、こうして祝うのを待ってくれていたことを思うと報われた気持ちになる。
「どうしたんですか。なんか副長、よれよれですよ」
「いろいろあったんだよ」
けんかに巻き込まれたこと。どうやらそれが万事屋の起こした騒ぎらしいこと。おもしろがっていた沖田に川へ突き落されたこと。
そんなものは序の口で、午後からはさらに過酷でどうしようもなくくだらない、ばかばかしいできごとに右往左往していたことなどを、かいつまんで話した。
もちろん、自分の恰好よくないところは省いた。
「お誕生日なのに大変でしたねぇ。お疲れさまです」
「まったくだ」
ほとんど嫌がらせのような事柄に振り回されて、ぼろぼろでくたくただった。
だからこそ、はやく戻ってきたかった。
「あ、そうだ」
山崎は、机に置いてあったぜんまいの置時計を手に取って、木枠のなかでちくたく動く、繊細そうな針をすこし戻した。
「ないしょにしてくださいね」
大切なことをこっそり話すみたいに、山崎は声をちいさくして言った。この部屋のなかでだけ、まだ五月五日。
「贈りものがあるんですよ」
山崎は文机の下からふくらんだ包みを出して、照れくさそうに笑った。
多少調子はずれではあるけれど、山崎のふわふわした様子に実のところ土方はかなり救われている。
山崎のねぎらいが、土方の尊厳をなんとか保たせいると言ってもいいくらいかもしれなかった。
「お誕生日おめでとうございます」
包みから出てきたのは、新しい靴下。真っ黒の、取り立てて言うこともない靴下。
「お、おう」
「この前履いてたやつ、かかとのところが擦り切れそうだったので。あとこれも」
次に取り出したのは、その辺の金物屋にいくらでも売っていそうな、なんてことない爪切りだ。
「副長、爪切り失くしたって言ってたでしょう?」
それから山崎は、手ぬぐいやら湯呑みやらを、ずらりと畳の上に並べた。
「毎日考えてたんですけど、結局何も思いつかなくって。副長、物持ちいいですし、高そうなもの使ってるし」
くちびるを尖らせて非難めいた口調で言うから、おかしくなって土方はふき出してしまった。
「はは、なんだよこれ。ふだん使うもんばっかじゃねぇか」
「でも、好みに合わないよりはいいかと……。万年筆とか腕時計とか、そういうのもちゃんと見に行ったんですよ」
「ばっか、いいんだよなんだって。安月給で無駄遣いすんじゃねーよ。給金はもっと有意義に使え。自分のもん買うとか、あるだろいくらでも」
早口でまくしたてたのは、内心ちょっと感動していたからだ。毎日毎日こころを配って見てくれているなんて、これほど男冥利に尽きることはない。
怒られた時みたいに、しゅんとしている山崎の頭を撫でてやったら、へらり、と頬をゆるませて、ちゃんと使ってくださいよ、と言った。
「ああ、ありがてぇな。こんなにたくさん」
なるほどどれも、買い足そうと思っていたものばかりだ。
「あーでも、爪切りは失くしたんじゃねぇから、おまえ持ってろ」
山崎はわけがわからず、きょとんと目を丸くした。
時計の針はまだ五月五日。
仕事と時代と面倒ばかり起こす上司や部下たちに毎日もみくちゃにされているけれど、それでも今日くらいは悪くない人生だと思いたい。
思ってみても、きっとばちは当たらない。
「鈍いやつだな。切ってもらいてぇ時はここ来っから」
「あ、はい、はいよっ」
ざまあみろ、俺はしあわせもんだ。
土方は世界中に言いふらしてやりたいくらいの気持ちで、散々で最悪で特別だった一日をどうにか終わらせた。
世の中よりすこし遅れて五月六日。
山崎は布団のなかで、土方の嬉しそうな顔を思い出しながら願った。
副長の毎日が、いい一日になりますように。
おわり
かなり遅れてしまいましたが、ハッピーバースディ!
09/05/24
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