春になったら


春の切符

みぞれ降る夜のこと、しごとを言いわけにやっかいな会合を抜け出した。急にひとを呼びつけておいて、まったくあきれる。松平のもとに近藤だけ残し、手を合わす思いで、夜半いよいよにぎやかな色町に飛び出した。
傘はないから濡れて走った。いまさらいそいだって仕方ないが、反故にした約束がどうにもすまなく、気持ちだけが急いて、幾度も転びそうになる。
暗い道みち、足もとは危なかったがなんとか屯所まで帰りついた。提灯を借りればよかったと今になって気がつく。傘も借りればよかったのだ。あいつのことになると、どうもいけない。それほどのんでもいないのに、顔も手のひらのも熱い。
しばらく息をととのえて、土方はからりと戸を引き、玄関で濡れた上着をはらった。内ぽけっとにだいじにしまってあるものが、濡れていないことをたしかめる。誕生日の贈りもの。もう日付けはかわってしまったが、二月六日には、とくべつな約束があった。
「あっ、おかえんなさい。はやかったですね」
雨、降ってきたのなら、連絡よこしてくださいよ。迎えに行ったのに。すこしだけ眠そうな声で、山崎は居間から顔をのぞかせた。
「すまなかったな、きょうは」
「いいえ、そんなの。それより風呂、はやく入ってきてください。風邪ひきますよ。着替えあとで、持って行きますから」
「悪いな」
追い立てられるようにして、土方は風呂場に向かった。いつもいつも約束をやぶってばかりで、それなのに嫌な顔ひとつしない。熱い風呂につかってぐったり力を抜くと、一日の疲れが湯気にとけて消えてゆく。脱衣所のちいさな音も、なんとはなしに心地がいい。
「副長、背中流してあげましょうか」
「いい、ばか、なに言ってんだ」
ふふ、と笑う声がする。こういうとき、女房をもらったような気持ちになる。ばかだな、と思い、いいな、とも思う。気恥ずかしくて湯船のなかで、しかめ面をつくってみたりする。
髪とからだをざばざば洗い、すぐにあがった。あいつはちゃんと、俺の着替えの抽斗も知っているのだ。袖をとおしながら、くちびるをゆがめた。
冷えた廊下をわたり、部屋に戻る。手あぶりに炭がじんわりと赤い色で燃えていた。山崎は、隊服の濡れた上着をはおって、そばに立っている。部屋はあたたかく、出掛けたときよりいくらか片付いていた。
「しわになると、いけないですから」
金糸の縫いとりのところを手のひらにはさんで伸ばし、湿り気をみているが、まだ乾かない。
「いいよ、そのへんにでも、掛けといてくれ」
髪のしずくを拭い、ふと思い出した。ああこのために、走って帰ってきたんじゃないか。土方は内ぽけっとをさぐって、橙色の字でかぶき町の駅のなまえが入った白い封筒を取り出した。
「これ、おまえに」
いくつかせりふを心づもりしてあったのだけれど、いよいよとなると思い出せない。しかたがないから、得意のむつかしい顔で押しつけた。
開けるように言われ、山崎が指で封をきる。列車の切符。日付けはずいぶんと先だった。
「春になったら」
ふたりで行こう、とは言わない。いつも、ことばがすこしたりないのだ。あとちょっとのところで、力んで息がきれてしまうみたいに。
「誕生祝いには、ならねえかな」
駅舎から滑り出してゆく列車の、ずっと向こうまで、はるかな町まで、ほんの短いあいだでも、旅ができたらいいと思った。これはいいことを閃いたと、昼間ひとりでうれしくなって、気がつけば切符売り場であれこれ休暇の算段をしていた。
めずらしがって山崎は、あちこち見まわしては、楽しそうに笑うだろう。列車から江戸のそとの景色をながめて、何か見つけるたびに教えてくれるだろう。
宿をとって、ゆっくりしよう。二日くらいなら平気だろうか。どこか静かなところで、うまいもんでも食わしてやろう。行き先はまだ決めていないが、おまえの行きたいところなら、俺はどこだっていいよ。
「ねえ副長も、一緒に行ってくれるんですよね」
「ああ、そのつもりだが」
線路のなまえと、駅のなまえを何度も目で追いながら、山崎はちいさな二枚の紙きれを手のひらにのせて、すっと息を吸いこむ。
「ふたりっきり、ですか」
「なんだ、嫌なのか」
きゅっとくちびるを引き結ぶ。山崎のしぐさは、ときおりほんとうに愛らしい。
「いいえ、まさか。あんまりうれしいと、なんて言っていいのか、わかんなくなります」
くせっ毛からのぞく耳のふちが、すこし赤かった。
「ありがとうございます」
一度なおして、また封をあけて取り出す。何度見たってかわらないのに、またじっと見つめてから切符を戻した。あたまを下げたはずみで上着の袖がゆれた。はずんで、ふわりと。
「でも、これ、副長が持っていてください。毎日取り出してながめたりしたら、よれよれになっちゃう」
うつむいてまつ毛が頬に影を落とした。抱きしめたくなる。
「なくしたらだめですよ。ちゃんと抽斗にしまっといてくださいよ」
「はは、わかった」
日付けはずいぶん先なのだ。楽しみに待って、日が近くなったらいろいろ決めて、きっとたくさん約束をする。どれもかなえられる約束だ。これはほんとうに、いいことを思いついた。上出来だ。文机の右の抽斗に、ふたりの約束。
「あの、誕生日ですから、あっ、もう過ぎちゃったけど、ここで一緒に寝ても」
「ああ、いいよ」
行燈を吹き消し、ひとつの布団におさまる。まだしばらくは寒いだろうと思った。
春になったら、休みをとって、ふたりで旅をしよう。江戸を離れれば、いつもよりは素直に、やさしくしてやれるかもしれない。

おわり
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