I'd Like to
端午の節句の朝はやく、屯所のすみの台所にあたたかな湯気がひと知れず、こっそりうれしげに満ちていた。
「はやいな、山崎」
「わっ、原田、なんで」
「いやあ、酔っぱらっちまって、気がついたら橋の下で寝ててさ。まあそれで、朝帰り」
「風邪ひくよ」
原田はコップに水をそそいで、ごくごく、うまそうにのみほした。まだ陽が昇りはじめたばかり。これから今度は布団のなかでもうひと眠り、一刻ほどは寝られるだろう。
「うわあ、うまそう。一個くれよ」
背の高い大きなからだでのしのし近付かれ、背中に隠したのを、ついに見つかってしまった。
何か、とくべつな用事でもあるのか。はりきって弁当つくってさ。いいなあ。はやしたてられ、山崎は取り繕いもできずに、なんでもない、を繰り返した。まさかこんな朝はやくに顔を合わすと思わなかった。
「おまえよくそんなで監察が務まるなあ」
「うるさいよ。もうあげない」
「うそうそ、ごめん。おまえは優秀な監察だぜ」
ちょっと声音をかえて、ご丁寧に眉間にしわをよせる。ものすごくこわい顔になっている。こどもだったらきっと泣く。
「なにそれ。こわい」
「副長のまね」
あかくなってしまいそうだった。似ているかと聞かれたから、言われたことないからわからない、なんて笑ってごまかした。
「顔に書いてあるだろ。討ち入りで、おまえのこと呼ぶときなんか」
なんでもないふうに言うので、素直に、うれしくなった。作戦かもしれないことを、すこしだけ疑いながら。
「お弁当、つくってあげようか」
「えっ、いいのか。やった」
こうしていつも負けるのだ。かんたんに、ちょちょいとうまく転がされて、ついつい安請け合いをしてしまう。戸棚のいちばん上に置いておくからと約束すれば、原田はようやっと台所から引き上げた。ちゃんと口止めもしておいた。
あくびをひとつ、山崎はしょうゆ味のたまご焼きに取りかかり、陽が昇りきった頃にようやく支度を終えた。よく晴れた、気持ちのいい日になりそうだ。
昼すこし前、まだ帳面整理が終わらない。山崎が時計の針をちらちら見つつ膝をそわそわさせるので、六番隊の古参の隊士はひとのいい笑顔で残りを引き受けてやった。
いつも淡々としごとをこなす監察の、きょうはとくべつの日なのだろうか。勘繰ったがもちろん、何も聞かない。山崎は何度もあたまを下げ、礼を言い、とびきりうれしそうに駆けていった。
もうすぐお昼、いけないなあと思うけど、年に一度きりのこと。ばちがあたってしまうなら、ちいさいばちで済みますように。
山崎は、革靴にかかとを押しこみながら屯所を出て、通りすぎ際、お地蔵さんに会釈した。風呂敷の包みを落っことさないよう、用心しながらはしる。
見廻りの順路も、お昼にだいたいどこにいるかも、昼食をどこで食べるかも、よくわかっている。一緒に行くことは月に一度もないけれど、しごとに区切りをつけ時計と見ると、ああ、いま頃は、とほとんど毎日思っているのだ。組いちばんのはたらきものは、自慢の好いひと、好きなひと。
鯉のぼりをあげている家の、角のところでやっと見つけた。胸の奥にぱしゃんと空の水色を撒き、さかなが跳ねた。
「ふくちょお……」
ちょっと息がきれて、うまく呼べない。それでも、ちゃんと振り返って見つけてくれた。
「あの、あの、お話しがあって、そのいま、お時間」
いいわけを考えていなかった。
気を利かせた一緒の見廻りの神山は、土方とふたことみこと話して町の、にぎやかな通りに歩いていった。
「おう、なんだ話って」
「はい、お昼、一緒に食べてください」
そんなことで呼びとめるな、とは言わない。息をきらして頬をあかくする山崎が、なんとなくこどもみたいにいっしょけんめいだったから、いつものやっかいな照れはなかった。
「うん。いいよ」
「お弁当、つくってきました。土手まで歩いてもいいですか」
土方がうつむき加減ですこしだけ笑ったのを、こそばゆい、あったかい気持ちで見つめる。はしってきた熱さと、陽射しのせいもあるかもしれない。
横町を抜けて、土手まで歩いた。かぶき町のまんなかを通る大きな川に突きあたり、芝草にならんで腰をおろす。
「驚きましたか」
「ああ、すこしな」
「へへ、じゃあ上出来だ」
驚かせたかった、と笑って山崎は、風呂敷の包みをほどいた。黒塗りの二段の重箱。ほんとうは四段あるが、お正月でも花見でもないので、あとのふたつはお留守番。
「お誕生日、おめでとうございます」
かぱり、蓋をあける。豆ごはんのにぎりめし、たくあんとたまご焼き、それから蕗の和えものが二段のお重に並んでいる。
「落ち着いたら、ちゃんとお祝い、しましょうね」
交通安全週間と祭日のにぎわいで、真選組はにわかにいそがしい。町にひとが多くなれば、それだけ事件も増える。こどもの迷子も大人の迷子も多くなるから、おまわりさんはいそがしい。
「ああ、ありがとうな」
土方の誕生日は毎年ばたばたと、あわただしさのなかで過ぎてゆく。昼休みのおだやかな、のんびりしたひとときが、だから何よりもありがたかった。
「早起きして、つくったのか」
「ちょっとだけです」
つやつやと光るにぎりめしの、ちいさな緑がきれいで、おなかはすいているのにしばらく、ぼんやりと見惚れていた。水筒の茶をついでもらう。指先がふれた。
川向うの鯉のぼりが、風に連なっておよいでいる。土手で遊ぶ子供たちの、かん高い声が響く。光満ちる草の匂いの五月の風。
「これもおまえが」
隅っこに柏餅が節句の顔ですましている。
「いいえそれは、ずるをしました。買ったの、詰めただけで」
「はは、そうか」
笑うと、五つほど若く見えることを、いつからか知ってしまった。きれいな顔。山崎は引き算をして、きょうのひとつを足し、見比べようと思ったけれど、もういつものむすりとした顔に戻っていたからできなかった。青春のよく似合う横顔もいい。でも、眉間にしわの、むつかしい顔も好きだ。
いただきます、と手を合わせ、大きなひとくちをこっそりながめる。具のかわりにマヨネーズ。もちろん、はいっていないのもある。そこはぬかりなく目印をつけておいた。
「うまい」
あまり褒められないから、ぜんぶきれいに食べてくれるだけでうれしい。でもやっぱり、おいしいと言ってくれたらうれしい。褒めないひとが、しみじみ言うからますます、うれしい。でもでも、副長の言ってくれることなら、ほんとうはなんでもうれしい。
風が吹いて、やわらかい前髪を絡ませた。くちびるの端に米粒がくっついている。とってあげたいけど、それは、気恥ずかしい。だれが見るとも知れないし。
「いいもんだな」
マヨネーズがありさえすれば、おおかたのところは満足の味のわからない土方でも、ひとつだけ思うことがあった。ずっとむかし、まだ郷里にいた頃に、妻子を持つだれかが話していた。
塩加減の相性がいいと、夫婦ってのはうまくいく。好き嫌いは違っても、塩の加減の好みが合えば、たとえば味噌汁の濃さや、つけものの具合やなんか、わからねえけど、ぴったしだとなあ、いい嫁さんをもらったって思うんだ。
その男は、いまも武州で百姓をやっている。たしか近藤がしつこく江戸にさそったが、ついにうんとは言わなかった。あの頃まだ赤ん坊だった娘子は、もういくつになったろうか。年をとるわけだ。江戸へ出てきて、ずいぶん経つ。
のろけ話にそのときは大層うんざりしたものだったが、こうなってみてわかった。そうして、照れくさい思いがした。きっとあの男は、しあわせに暮らしているだろう。そうであればいいと思う。そうでなきゃいけないと思う。
「おまえ、このあと、はやく帰れよ」
「ついて行ったらだめですか」
「あたりまえだろ。雨になるから、帰りなさい」
お重はからっぽ。土方はごろりと寝転んで雲を見上げた。遠くに、濃い雲のかたまりが浮かんでいる。
「この年も、息災にすごしてくださいね」
節句の願いのようなことを言う。空には鯉のぼりがおよいでいる。土方は山崎の膝を枕にして、目をつむった。草の枕よりずっと心地がいい。
「ああ、そうしよう」
お昼休みは、あとすこし。おなかいっぱい。午後もしっかり、はたらかねばなるまい。
おわり
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