つめたさは孤独に似ている


つめたい雨の水曜日

朝からずっと雨だった。霧のようなこまかい雨粒が、窓硝子を曇らせている。
青いストライプのはいったシャツのそでをまくって、伊東は店の奥で自分のためにコーヒーを入れる。ちいさな写真館の台所から濡れた路地を眺めながら。
息苦しいくらい湿った空気。こうばしい香り。水曜日の気だるい午後。
細く開けた窓のすきまからは、ゆるい風が流れ込んでくる。 いつからか雨は、孤独と同じくらい親密なものだった。

ずっと昔、まだ子供だった頃。
小学校の玄関で、色とりどりの傘たちが遠くなっていくのをずっと見ていた。迎えに来たあかるい色の傘の下に走り寄る子供の声。
すこしの期待をこめて待ってみても、自分のための傘は来ない。忘れられた子供だった。
忘れられた、そして永遠に思い出してはもらえない、無力でちっぽけな存在だった。

結局さいごのひとりになってから、雨のなかに歩き出した。毅然とした顔つきで、いそがないで歩いた。 寂しいと思っていることを誰にもさとられないように。
門を出てしばらく歩くと、黒い猫がたたずんでいた。びしょ濡れになって、なんとなくかなしそうな目をしている。
ほんとうは、そばに行って抱きしめたかった。つめたい雨粒から守ってあげたいと思った。だけど、そうしなかったのは、同類だと認めたくなかったからだ。
ぼくは、寂しくなんかない。だれにも傷つけられたりしないし、頭の悪い、無力で無能なうるさいだけの子供とは違う。

格子戸を開けて玄関に入ると、家のなかから母と兄の声が聞こえた。梅雨になると決まって体を壊してしまう兄に、毎日は母つきっきりで世話を焼いている。
帰ってきたことにさえ気がついてもらえなくて、ふいにさっきの猫を思い出した。びしょ濡れになってかなしい目をした、黒い猫。
それからは夢中だった。傘を掴んで雨のなかを駆け戻った。家を出てからなにか拭くものを持ってくればよかったと思ったけれど、取りに帰らなかった。
はやく、はやく抱きしめてやらなくちゃ。ぼくが守ってやらなくちゃ。

でも、猫はもうそこにはいなかった。はじめからいなかったみたいに、跡形もなく姿を消していた。
雨がしみて、泥だらけの運動靴のなかはぐずぐずになっている。腕をつたうつめたさ。濃い雨の匂い。
道端にぽつんと取り残されてわかった。自分はひとりなのだと。
雨は孤独の匂いがした。それはひとつの強さだと思った。ひとりでいい、そのほうがずっと気高くいられる。
その時、きっと何かをあきらめたんだ。

からん、とドアチャイムが鳴って、伊東は大人の自分に戻った。二十八の孤独な、ひとりの男に。
「いらっしゃい」
「すみません、これと同じフィルム置いてますか。125ミリの」
「ああ、ちょっと待ってて」
伊東は奥の棚からちいさな細長い箱を出してきて、若い男にわたした。
「ずいぶんめずらしいものを使っているんだね」
「よかった。どこにも売ってなくて。ありがとうございます」
ボートネックのボーダーシャツと褪せたジーンズ。まゆの上で切りそろえた前髪が、濡れた額に張りついていた。一重の、すっきりした目をしている。

「……これ、あなたが撮ったんですか」
代金を払うと、アイヴォリーの壁に掛かった写真を見つめて青年は言った。
つるばらの葉の茂る、モントルイユの煉瓦通り、うすいみどりのしっくい塀には鳥のかたちをした影が映っている。
伊東はすこし驚いて、ええまあ、と口ごもった。情熱できらめく瞳。そういうのは苦手だ。
「ほかにも見せてください」
「申し訳ないのだけど、これ一枚しかなくて」
「そうですか。残念だな」
見るからに気落ちして、凛々しいまゆをすこし下げて言う。濡れたえりあしの髪が束になっていて、ぽたり、としずくが肩に落ちた。
「よかったら、明日また来てくれないか」
用意しておくから。
自分でも不思議だと思う。今まであまりひとには見せなかったし、見てほしいとも思わなかった。無防備な気がしてしまうのだ。 知ってもらいたがっているような、理解してほしがっているような、とても無防備な行為に思える。
「はい、ありがとうございます。明日、必ず」
「きみ、名前は」
「篠原です」

えりあしからまた雨が落ちる。つめたそうだ、と思った。
「風邪をひくといけない。はやく帰ったほうがいい」
迷惑そうな口調になってしまってすこし後悔したけれど、青年は気にするようすもなく気持ちのいい返事をして、店を出て行った。
「そうだ、傘を」
背中を追って外に出る。だけど、こまかい雨が降る道に姿は見つけられなかった。雨に夕暮れの匂いが混じっている。 ひとりの、静けさに守られた店に戻ると、さっきまでのできごとが、まぼろしのように思えてしまった。はじめからなかったことみたいだ。
子供じみた気持ちをごまかすようにして、冷めたコーヒーをひとくちすすった。


おわり
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