おばかさんたちの話


chew?

花の匂いがする。甘酸っぱい、かわいい感じの匂いがする。
ねえ、どうして、そんな匂いをさせてるんです。
あのひとの通った後にふわり、花の香りが残ってる。
春になったら江戸の町にも花の匂いがあふれるけれど、夏のおわりのそんなのは、どうしたって苦しいよ。
でも、でも聞けない。聞いちゃいけない。どこかにだれか、かわいいひとがいるのかな。いとしいひとがいるのかな。
だれかを好きになるなんて、こころ変わりをするなんて、憎らしいけど仕方ない。遊びだってなんだって、一度は好きだと言ってくれた。
身の程知らずな恋だった。ばちが当たったんだろう。好きになってもらえるなんて、きっと思っちゃいけなかった。

一日、いちにち、なんとかやり過ごして山崎は逃げるみたいに部屋に戻った。
仕事のほかでも、気になることはそぶりにも出さないで、苦い気持ちをしまいこんだ。簡単だった。長くそうしてきたのだから。朝飯前のうそだった。
きっぱり離れてしまえたら、それがいちばんいいのだけれど、やっぱり好きだ。それでも好きだ。
きらいになった、と、ひとこと言ってくれたなら、それでちゃんとおしまいにしよう。それだけ胸に決めていた。
「山崎、いるか」
からりと襖をあけて、土方は部屋に入った。声はかけても返事は待たない。そんな仲も、もう長い。
「何か、ご用ですか」
かすかな淡い、花の匂い。あんたなんかきらいだ、と、思ってみることすらできない。だから、言えるはずもない。
「ご用がなきゃ、来ちゃいけねぇか」
山崎は、もう読んでしまった本を取り出して、ぱらぱら頁をくってみる。並んだ字が山崎を責めた。
女でもないくせに。なんにもできないくせに。愛される価値も、ないくせに。
「そっけねぇな。相手してくれねえの」
なんでそんなこと、喉もとに引っかかる骨みたいな言葉。もういやだ。痛い。つらい。苦しいよ。
「相手してくれるひとなら、ほかにもいるんでしょう」
冗談めかせたはずだけれど、声は情けないくらい、みじめで、ばかで、かわいそうな感じがした。
「はあ?」
しらを切るなら、それでもいい。今すぐに、放り出す気はないのだと、そんなことに安堵する。そういう自分がいちばんきらい。みじめで、ばかで、情けない。 身の程知らずな自分がきらい。
「花の匂いが移るような、そういうことをするひとが、いるんでしょう。ここのところ土方さんは、なんだか甘い匂いがしますよ」
山崎はこときれそうな気持ちで言った。それなのに、土方はかちりと固まって、だんまりを決めこんだ。みるみるうちに眉間にしわができて、こわい顔になった。
山崎は顔を上げることもできなかった。ああ、言ってしまった。ぜんぶおしまい。ごめんなさい。こころはこなごなで、体は石のようだった。
「あ、ああ! おまえ、ばっか、ばかだなあ!」
土方が突然大きな声で叫んだから、びく、と肩を跳ねさせて、山崎はやっと土方を見た。まだ石にはなっていなかった。
「これ」
土方はずぼんのポケットからちいさな包みを取り出して、まるい紅色の粒をふたつ、みっつ口に入れた。
噛んで噛んで、ぷううっとふくらます。チューインガム。
「あれ、え、この匂い」
「梅味」
信じられない。こんなことがあっていいものか。あんなにあんなに悩んだのに! 死んでしまいそうなくらい落ちこんだのに!
「なんで、だって、土方さんガムなんかいっつも噛まないじゃないですか」
「ばっかやろう! おまえが言ったんだろーが! 煙草くさいって! 煙草くさい口でちゅーすんなって、おまえが言ったからだろ!」
急におそろしい顔になって、切れ長の美しい目元まできゅっとつり上げて、土方は怒りだした。でも言ってることは、ちょっとおばかさんである。
「言ってませんよそんなこと!」
「はあ! 言ったろ! こないだ書類部屋で! 忘れやがってこのやろう!」
俺だってなあ、好きじゃねーよこんなもん。甘ったるいしべたべたするし、いつ捨てんのかわっかんねーし!
土方は早口でまくしたてた。あまりに気恥ずかしくて、出て行きたかった。それでも誤解をとかなければ、自分に明日はこないのだ。
「あれは! だってあかるかったんだもの! 昼だし恥ずかしいし、そんなのって!」
はっと気がついて、黙った。部屋とはいえ、ここも屯所のなかだった。犬も食わないけんかだけれど、隊士のだれかに聞かれたら、向こう半年はからかわれる。たぶん、からかわれるだけじゃ、すまない。それに、よかった。うれしかった。泣きそうだった。まだ好きでいてもいいのだと、思うだけで涙が出そう。
「ごめんなさい。土方さん。早とちりしちまって」
土方もようやっと気がついたとみえて、ほっぺたを、ぽっぽぽっぽさせながら、黙ってうつむいている。
「ねえ、でもなんで、梅なんですか」
「婆さんとこ、これしか売ってねえの。それに」
わざわざ煙草屋で煙草と一緒にガムを買う、それを想像してみたら、ちょっとかわいくって、山崎は笑ってしまった。
「おまえ、甘いもん好きだろう。今度はからいとかなんとか言われたら、たまんねーだろ」
きらわれたくなかった。でも本数は減らせなかった。努力はしたのだ。煙草の箱に伸ばす手を、三度に一度はひっこめた。だけどそれでも書類の束が列をなして待っている。
休憩がへたくそな土方は、体によくない習慣にすっかりつけ込まれてしまった。骨抜きにされて、手放せなくなってしまった。それでも、努力はしたのだ。
もっと手放せないものを、失いたくなかったから。ばっちり骨抜きにされちまってるから。
「ばかやろう、びっくりさせやがって」
土方はガムをぺっとちり紙にまるめて捨てた。
「腫れるほどしてやるから、こっち来い」
今さらいい男ぶったって、手遅れもいいところ。きらわれたくない。ちゅーがしたい。その一心でガムまで噛んだ色男。
だけれど効果はてきめんだった。
山崎は泣きだしそうな顔をして、花の匂いのくちびるに、そうっとくちびるを重ね合わせた。
「あのね、ほんとうは、土方さんの煙草の匂い、好きですよ」
とり越し苦労ばっかりの苦くて甘くて酸っぱい恋。なくては生きていかれない、たぶん、煙草よりも何よりも、手放せない恋だった。

おわり
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しょうもない話ですみません…!