千代
「お稽古、つけてください」
晋助が江戸での隠れ宿としている品川の女郎屋に、娘がひとり売られてきたのは、師走の寒い朝だった。
霜焼けた素足と赤い頬、おぼこい顔をしてはいるが、数えで十五になるという。雪国のなまりの抜けない、幾分ぼんやりした娘が私娼でやっていけるのか。晋助はおもしろさも手伝って、女たちから話を聞いていた。
それから半月ばかり経った頃、娘のほうから三味線を教えてくれと頼まれた。今では週に一度か二度、この部屋で稽古をしている。
あかぎれのある、か細い手で撥を握りしめ打つ音は、力強く、また、やさしかった。
「入んな」
「はい、よろしくお願いします」
きちんと膝を揃えて座り、ゆるく髪を結えたあたまをぺこりと下げる。
「千代、昨日は叱られなかったのかい」
「はい。お師匠さん、うまくなったって褒めてくれたよ。先生のおかげだね」
「それはよかったな。でも、もうよそうぜ、その先生ってやつ。こそばゆくっていけねえよ」
格式の高い見世ではないが、三味線くらいは習いに行かされた。そこの師匠というのが吉原上がりの厳しい女で、見世の女たちは影で鬼婆と呼んでいる。
「先生は先生だもの。晋さんじゃあ、なんだか遊んでるみたい」
この毎度のやりとりは、いつも晋助の負けでおわる。元は田舎娘とて今では江戸の女郎屋の女、口で勝てないことは承知だけれど、いつからか稽古を始める合図のようになっていたから今さらやめられもしなかった。
「じゃあ、さっさと弾いてくれ。俺も暇じゃあねえよ」
ちん、とん、しゃん。
野を駆けるまっ白い子うさぎのような、かわいい音色が漏れている。
万斉は客のない、がらんとした階段に腰掛けて、稽古が終わるまで待つことにした。往来の昼の陽が格子戸から細くこぼれていた。
さらってみせる晋助の音は、いつものように伸びやかで掴みどころがない。うまく弾こうともしない。丁寧にもゆっくりにも弾かない先生では、娘もさぞや往生するであろう。
千代とは前に一度だけ、廊下ですれ違ったことがある。顔を見るや、ぱっと頬を染めて、急いで駆けて行った。姉女郎に何か吹きこまれたのだろうか。この見世では万斉は、晋さんの情夫、だった。女たちからもらった色っぽい肩書を実はちょっと気に入っている。
何度目かの常磐津が終わり万斉が襖の前まで行くと、今度は話し声が聞こえた。
「ねえ先生、あたし、あさってが初見世だって」
「そうかい」
晋助はなんと言ってよいのか迷った。下働きでなく見世に出られることは、千代にとって出世に違いなかった。すくなくとも、生きていかれる道ができた。それをよろこんでやりたいと思った。
ただ、胸に痛むものがすこしもないわけではなかった。恋も知らぬおぼこい娘が客を取る。たった十五の娘のからだも、こころも、つらくないわけがない。
「晋さんのところにくる、あのひとみたいだったらいいな」
「何が」
「初めてのお客。だからもっと上手になりたい」
大人の女の顔をして、千代が言った。
「先生も好きなおひとに聞いてほしくて、いっぱい練習したんでしょう?」
あんまりきれいに笑うので、晋助は胸を詰まらせてしまった。
これからどういうふうにして飯を食っていくのかを、千代はちゃんと知っている。
毎夜重ねるうその恋。それでもいつかほんものを見つけたいと願っていた。たとえ売られた娘でも、だれひとりその希望まで奪うことはできない。
「ああ、したよ。たくさん」
ふふ、とこそばゆい声がほころんだ。好きな男の前でだけはちっとも思うように弾けない。千代がその、疼くような歯がゆさを知るまでに、いくつの夜が必要だろう。
「晋さんがあたしの先生になってくれてよかった。お三味線、好きになれたもの。ありがとう」
あまり器量がよくないから芸事くらいはできないと。そう言って稽古に励んだ娘だった。一曲習うごとにうれしそうな顔をして、指の皮もかたくなった頃は、かなしい唄に涙した。こころのきれいな娘だった。
「下手くそのくせに。一丁前のこと、言いやがる」
この見世の女は強い。自らの境遇を嘆くことなく、背筋をしゃんと伸ばしている。昼も夜も晴れやかに笑い、客と布団に入り、寝ぼけた顔で朝粥をすする。
女たちは何も捨てなかった。いのちも、希望も、捨てなかった。晋助は敵わないとさえ思う。その強さは例える言葉もないほどに、美しく、しなやかだった。
「千代は、いい女になる。俺が言うんだ、間違いねェさ」
ちょっと上を向いた鼻のてっぺんと、まるい頬を赤くして、娘はこくりとうなずいた。
ねえさんの支度があるから。声をほんのすこし湿らせて、部屋を出て行く千代の足首が昼陽に淡く白く照る。
「女の子はいつのまに大人になるのか知れぬな。美しい音でござった」
万斉が入れ違いに顔を見せて、やわらかな音の名残りを追うように、立ったまま瞼を伏せた。
「当り前だろう。俺の弟子だ」
誇らしげなその声は、千代に届いたに違いない。雪のごとき白梅が花弁をふわりとほどく夜、娘は女の痛みと強さを知るだろう。
おわり
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