知ってゆく運命


知ってゆくこと

先ほどから急に降りだした雨に追い立てられるようにして、晋助は表長屋の戸を叩いた。気まぐれな散歩の途中。
めずらしく部屋にいたいつでも不在の男は驚いて、それから戸惑ったような顔で、突然の客をなかへ招き入れた。
楽譜紙が古い文机の上に散らばっている。雨の匂いがこざっぱりとした、殺風景な部屋に流れ込んだ。

すまないが仕事があるゆえ、と言い置いたきり、万斉はほとんど何も言わない。
五線譜に筆を走らせては傍らへ追いやって、また新しい紙に向かう。時折鳴らす三弦が、雨音のなか、かすれて立ち消えた。
晋助は、懐から煙管を出して火をつけ、ゆっくり吸い込む。うす紫の陶器の灰皿は、紙巻き煙草の吸い殻でいっぱいになっている。
煙の向こうの背中が遠い。いつもなら、あれやこれやと話を始めるのだけれど、今日に限って万斉は、
腰を上げかけた晋助のことを、雨が止まぬから、と言って引きとめたくらいだった。
ぼんやり背中を眺めるうちに、部屋の隅で眠ってしまった。

夜明けの手前の青い夜。
心地の悪いよどんだ夢に揺り起こされて、晋助は目を覚ました。寒い。
敷布の端、背中を向けて眠る万斉をただぼんやりと見つめていると、どこか虚ろな気持ちになった。薄暗い夢の余韻は汗になって額を濡らしている。
生温かさはすぐにつめたさになって、苛立ちよりも寂しさを際立たせた。
体のなかが空っぽなのは、のどが渇いているせいだ。晋助はそう言い聞かせて、枕元に置いた硝子瓶の水をそのままあおった。
透明でつめたい水は腹のなかにまっすぐ落ちて渇いた体に沁みていく。けれど、すこしも満たされやしない。

雨は止んでいる。傷の輪郭だけをぼんやりと照らすような清潔すぎる青い夜。
どうにか眠りを手繰り寄せようとするのだけれど、一度覚めてしまっては、もといた場所に寝転んでもたやすく落ちてゆけそうもない。
背中が、遠い。いつもなら、しっかり抱きとめられていて、嫌でももっと近くに感じていられるのに。
晋助は傍らで眠る万斉にふれた。あたたかく、眠りのゆるやかな振動が手のひらに伝わってくる。
「万斉」
静かに今、寂しいと思った。
いつ手放してもいいくらいだったはずだ。失うことには慣れている。
けれどたしかに、傷ついていた。
出口のない浅い眠りにたゆたいながら、晋助はすこし背中に寄り添って、ひそやかに朝を待った。

格子戸から陽が差し込んでいて、まぶしい。 目を開けると、細い煙が立ち上っているのが見えた。自分のものとはすこし違う、けれど近しい煙草の匂い。
「万斉」
声に出すと、ずっと呼んでいたような錯覚があった。もしかしたら、ほんとうにずっと呼んでいたのかもしれない。
「昨夜は申し訳ないことをした。怒っているのでござろう?」
「いいや、仕事があるだろうに、邪魔をして悪かったな」
万斉は、ゆっくり笑って見せた。心配そうな、眉をひそめた笑い顔だった。
「ちょっと、仕事のことでいろいろと重なって…気を遣わせてしまったでござる」

文机にはきちんと端の揃えられた紙束、灰色の湯飲み茶わん、朝陽にあたたかいみどりの畳と横たわった古い三弦。
失うもなにも、ほとんど知らないじゃないか。
晋助は思った。
何が好きで、きらいで、どんなふうに暮らしているのか。
朝目覚めて思うことも、夜眠る前に考えることも、知らないじゃないか。
「大変なんだな」
分かち合うこと、深く交わることを恐れていたのだ。
「いや、それほど大変でもないのだが…何というか、うまく形にならなくて」
ちょっと苦しいでござるな。
万斉の頬はいつもより白っぽくて、どうやらまいっているらしいことが見て取れた。
そういう顔も悪くない。

失うことに慣れすぎたから、何も持たないままでいいと思っていた。そのほうがいくらか楽だ。それなのに手放せなくなってしまった。
なくせないことを受け入れるのは、とても勇気のいることなのだ。求めるのもまた勇気のいることなのだろう。
晋助は恐れを捨てて、いつでも求めてくれる勇敢な男を抱きしめた。
もっと深く知ってゆくために。日々を分かち合うために。


おわり
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