春待ち風
河岸の廓に居ついてふた月。時折つめたい風が吹くけれど、格子窓の向こうには桜のつぼみが膨らみ初め、手を伸ばしたら届きそうだ。
見世のおかみには相場以上のものを渡してあったし、目の行き届きにくい楼のこと、隠れ住むにはちょうどよかった。
「ちょっといいかい、晋さん」
緋襦袢に次ぎ袖をした着物をだらしなく引っ掛けて、女がふすまを開けた。この楼でいちばん年増の妓、梅里だった。
「団子買って来たんだよ。一緒にどうだい」
なんやかやと世話をやきたがる梅里は、返事もしない晋助をよそに、火鉢にかけた鉄瓶で茶をいれた。
晋助は寒いのが苦手なのか、まだ火鉢を片付けないでいる。
「待ってんのなら、自分から行きゃあいいじゃないか」
吉原からはすこし離れたちいさな見世。女たちはにぎやかで、物怖じせず晋助にもあけすけにものを言う。
なかでも梅里はここの娼妓たちの姉さん役で、言うことはきついが色白でたいそう器量がいい。前にいた吉原の見世じゃ部屋持ちだったと聞いていた。
「あの男のこと、好きなんだろう?」
「ばか言うんじゃねぇよ」
何やらいそがしいようすで、万斉はここのところ、とんと姿を見せない。
食事に誘った昨日も、断りの短い連絡を寄こしただけだった。
「いい風だねぇ。春待ち風よ、恋しい人を、どうぞ運んで会わせておくれ…ってね」
流行り小唄の一節が、やわ風に流されて長い髪を揺らしている。
梅里には、男がいた。金の工面ができたなら、見受けをして一緒になると約束までした男だった。
飾り職人をしているとかで、傾いた店を建て直すためにまとまった金が必要だと、無心をしてきたのが去年の夏。
うそは百も承知だったけれど、わずかな望みを捨てられなかった。たったひとつの細い糸が、この身すべての支えだった。
男は金子を受け取った後、二度と姿は見せなかった。梅里は膨れた借金のために鞍替えをして、ちいさな河岸見世まで落ちてしまった。
廓じゃよくある話だ。よくあるどころかありふれすぎて、芝居の筋書にもならない。
「好いた男に愛されたなら、きっと離しちゃいけないよ」
忘れたつもりでいるけれど、今もまだ、すり切れた糸を縒ってつないで、明日の頼りにしているのだ。
恋なんて、なんのあてにもならないものを、信じて夢見て生きている。
「そんな相手じゃねぇよ、あいつは」
自分に言って、晋助は団子をほおばる。
その後は、昨日の客の話などして一刻ほど過ごした。
「あらあ、おいでなすったよ。あんたの待ち人」
窓の下、通りの先に、見慣れた姿がある。万斉だった。
「やっぱり、嬉しそうだねぇ。その顔見せておやんなさいな」
ふふ、と笑って梅里はやさしげな目を向けた。おしろいもはたいていないし乱れた髪のままだけれど、せつないほど美しかった。
「うるせぇよ。なんでそんなに構うんだ。ほっとけばいいだろ」
「あんたに願かけてんのさ」
安物の着物をひるがえし、ふわり、と部屋を出て行く。
そんなものあてにするな、とは言えなかった。自分も同じかもしれないからだ。
ほとんど入れ違いに万斉が顔を見せる。
「晋助、長いあいだ来れなくて、あいすまなかった。怒ってるのでござろう?」
「いいや、忙しいんだろう?俺こそ無理に呼びつけて悪かったな」
晋助はくつろいだ、笑みにも見える顔をした。恋にすがるつもりはなくても、会えれば嬉しいのが本音。
「……え、いや、拙者、晋助のそばにいるのが仕事であるのに、その…何かあったか?」
「何も?」
いつもなら、機嫌をそこねれば口もきかない晋助が、今日はやけにやわらかい。こんなことは初めてだったし、なんだか妙な気がしてくる。
落ち着かなさを感じて、万斉は話題をかえた。
「ああ、そういえば、そこでひとにすれ違ったでござる、なんでも、女を探しているとかで」
歳の頃なら三十半ば、職人風の男で、想い人を訪ね歩いているらしかったことを話した。
「会えるといいでござるなあ」
陽気のいい午後の光がこぼれ射して、褪せた畳にひだまりをつくっている。
火鉢もそろそろしまおうか。そんなことを晋助は、うすぼんやりと考えた。
春はもう、近い。
おわり
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