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はなとちるひを(一部)

料理屋を出ると雨が降っていた。女中が傘をわたしてくれようとしたが、土方はことわり、夜のなかに踏み出した。
雨なら、ちょうどいい。酔っぱらってしまえるような酒ではなかった。川の向こう、廓町のあかりが夜の底でゆらゆらとゆらめいて見えたが、女を抱く気にもなれず、背を向けて歩をいそいだ。
路傍の小石がこつり、つまさきにぶつかる。転がって、暗い闇のなかに吸いこまれた。
俺はこの石ころとすこしも違わねえんだな。虚しさが砂になり、足もとに絡まる。ぬかるみに足をとられながら、それでもなお歩き続けた。この国はもう、さむらいの住処ではないのだろう。しかし、いまでなければ、きっとここまではこられなかった。幕府が栄華を誇った時代なら、路傍の石ころとなることもかなわずに、川の底に沈んでいただろうさ。
橋を渡り、灯のない通りをしばらく歩いた。上着の襟をかき合せてもつめたい雨が沁みこんで温もりを奪ってゆく。土方は奥歯をぎりりと軋らせた。
「副長、こんばんは」
闇のなかから声がした。立ち止り、夢からさめた。
山崎はたたんだ蛇の目を二本抱え、軒先に身を縮こめるようにして立っていた。かたわらに、ちいさな提灯が置かれてある。
「雨が降ってきましたから、お迎えに」
土方は驚いていた。見世の場所も戻りの時刻も伝えていない。たずねると山崎は、町中から戻るにはこの道しかないから、とまじめな顔で話した。
「あの、迷惑でしたか。先、戻ってましょうか」
「いや、いいんだ。助かったよ」
雨をよけ、上着のしめりをはらう。傘を受け取ると、指先がわずかに、ふれた。
「つめてぇ手だな」
よこしてくれた蛇の目をわきにはさんで、山崎の手をこすってやった。あかぎれのあるつめたい手はかじかんで、ちいさくふるえている。紙を揉むようにしながら、土方は棘立った気持ちが静かにまるくなってゆくのを感じた。肌はいくらかぬくもって、やわらかくしおれている。
「ずいぶん待ったか」
「いいえ、ほんの、ついさっき」
提灯が地面を打つ雨粒をきらきらと照らし、山崎の枯れ葉色になった下駄と、膝まで雨が沁みこんだ脚絆に、黄昏の光を投げていた。
「そうか」
山崎は指にやさしい熱をかよわせながら、やさしいひとだな、と思っていた。ぶっきらぼうなやさしさが、ほんとうにほんとうにうれしかった。きりりと澄んだ面持ちには、ちょっとだけ不似合いな、ごつごつした頑丈そうな手。
黙りがちにふたつの傘がならんで歩く雨の夜。
懐かしくてやさしくて、ふわりと甘やかな気持ちが、胸のあたりに躍る。土方はくちびるの隙間から、ちいさな笑い声をこぼした。
「どうかしましたか」
「いや、おまえさっき、こんばんはって、言ったろう」
「あっ、すみません、あの」
雨粒はこんぺいとうみたいな氷のかけらになって、ぽつぽつと傘を打っている。
「いや、いい。おまえらしくて、いいよ」
肌の外側は沁みるような寒さだけれど、内側にはあかりが灯っている。そのあかりが照らし出す胸のなかの黒い石を、土方は見ないふりであかぎれた手のことばかり考えていた。
山崎は傘の柄を肩に掛け、楽しそうにその手をのばして、ちいさな氷をとまらせている。
「ひゃっ、つめたい」
あかりがゆれる。道もゆれる。光の届く、そのすぐ先は何も見えない闇だった。
屯所の門をくぐる頃には雨は牡丹雪になり、玄関の先に植えた南天にうっすらと積もっていた。
「おまえに、頼みたい仕事がある。着替えてからでいい、後で部屋まできてくれ」
山崎は土間の壁に濡れた蛇の目を立てかけて、下駄箱のすみに履きものを揃えた。
「承知しました」
今夜でなくともかまわなかった。だけど明日になれば、どうも言い出せそうにない。この津和屋の一件を知るものは、土方のほかには山崎しかいない。山崎なら、うまく運ぶだろうとも思う。そうやって俺は何度、やさしいおまえを闇のなかに突き落としただろうか。


おわり
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