おかえりって言ってほしい


惚れた弱み

絹を一枚羽織ったきりで、裸足のつまさきが透けるほど白くなっていた。気がかりで仕方なかった。
晋助は、栗皮色のつやつやしい睫毛を伏せて、火鉢をぼうっと見遣ったり、手をかざしたりして、抱きしめたらうっとおしいと目で言うくせに、寒そうなしぐさと気のない返事で送り出された先週末。
今頃はがらんどうの船に冷たい風が吹くのだろう。

できれば四六時中ついてまわってあたためてやりたい。けれどそれは叶わない。奇兵隊の剣豪は、稼ぎ頭でもあるのだ。それが万斉には嬉しくもあるが、かなしいところでもある。甲斐性を見せなければ、どこぞの昔の仲間とやらに、いつ何時、愛しいひとを奪われないとも限らない。
惚れた弱みが突き刺さる。

万斉は表の仕事を終わらせて、高杉がねぐらにしている船へと向かう。向かうというよりは、帰る、といいたい。おかえり、と言われたことは一度もないが。
年末の気忙しさはどことなく特別な活気になって、通りをにぎわせている。
万斉は、ふと呉服屋の前で足を止めた。硝子戸からのぞいた晴れやかな紅梅色に目を奪われて、そのままふらり、入ってしまった。
奥方様にでございますか、さぞやお喜びになりましょうな、などと番頭の愛想にうかうか乗せられてつい、丹前を、と言ってしまう。寸法を聞かれて我に返っても受け取る相手は、いないに等しい。苦し紛れもいいところ、きびきびと働く若い女中を指して、あの娘よりすこし大きいくらいで、などと口走った。
受け取ってほしいと思う相手なら、ひとりだけ、いる。

店を出る、暮れ六ツの鐘を遠くに聞いた。
仕立て上がるのは数日後だと言っていた。それまでは拙者の腕であたためてやろうだなんて言ったなら、晋助はまた、心底うっとおしそうな目で、それでも具合よさげに、背中をもたせてくれるだろうか。
次からは、紅梅色の丹前を着て、拙者の帰りを待っていてくれたらいい。
風邪などひかないように、あたたかくして、待っていてほしいでござる。ついででもいいからおかえり、と、ひとこと言ってくれたなら拙者は嬉しいでござるよ、晋助。
こころのすみで願ったら、口元がほころんだ。楽譜紙で重い鞄と三弦を背負っていても、飛べそうなこころ持ち。惚れた弱みも心地いい。

万斉は師走の華やぐ通りを抜けて帰りを急ぐ。ただいま、とちいさな声で練習をした。


おわり
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