ハミングバード
穏やかなせせらぎに浮かぶ舟ひとつ。
小鳥が唄い花が踊る、さながらワルツのような真昼に、この静けさは不釣り合いだ。
高杉は気だるさをにじませて煙管を吸い、伊東は本を開いていた。頁を捲り、細いステンレス・フレームの眼鏡をくい、と直す。会話のひとつもない。しかし河上の気になるのは、会話よりも凍てつく水面のような鼓動だ。静か。
「…おぬしら、何か楽しいことをせんか?」
「ああ?人斬りがこんな昼に楽しいこととは物騒じゃねぇか」
茶化した高杉はあまり機嫌のよさそうな面持ちではなかったが、河上は続けた。
「人斬りであろうが人でなしであろうが、このようなひより、わくわくするでござるよ」
そうかい、と気のない返事をした高杉をよそに、河上は三味線を抱いた。調弦をして、奏で始めたのは、すこし古い歌謡曲。
まだ拙者が駆け出しの頃、どこへ行ってもこの曲がかかっていた。
そう思いながら、ほこりのかぶった記憶のなかを、ゆっくり流れる速さで撥を当ててゆく。
ラジオ局で持ち込んだテープを突き返された時にもたしか、この曲が流れていた。あまりいい思い出とは言えないが、時の流れに削られて苦い思い出はまるくなる。きれいに角がとれ、いつかの棘は優しく、懐かしさを呼び覚ます。音楽にはそういうものがある。
もたれ掛った高杉の横で障子が開き、また子が入ってきた。興味深げに窓際の河上に駆け寄って言った。
「いい曲っスね!どこかで聴いたような気が、」
ちょうどとなりにいた伊東は、すっと人差し指をくちびるにあてて、たしなめた。どうやら聴いていたらしい。また子が両手を合わせた仕草で、ごめんなさい、と言うと、河上には、ふ、と伊東が誰にもわからぬ程度で微笑んだ、気がした。
いつのまに、冷たい空気は不思議なほどほころんで、優しい風が舟を揺らしていた。
短いスカートでぺたん、と畳に座ったまた子のそばで伊東は本を置いて、まぶしいものを見るようにすこし、眉をひそめる。まるくなりきらない思い出の、痛みにそっと耐えるふうな、だけど大事なものを慈しむ、そんな顔をしていた。
拍子に合わせてまた子の髪がふわふわ揺れる。すこしずれているのもご愛嬌。
空の青が晴れやかに水面を照らし、やわらかいひかりがきらきら、木目の天井に反射している。
高杉が膝を立てればぶどう色の紬の裾を、心地よい風が揺らした。座敷のいちばん奥で楽しげなようすをひとり、見物していた。ふわりゆらり、煙管の先から煙が立ちのぼる。
「この唄は歌詞もいいでござるよ」
へえ、とまた子は言ったけれど、この流行歌が聴かれた頃を彼女はよく知らないらしい。
リズムを刻めば唄い出す、鼓動は素直だと、河上は思う。サングラスの奥で伊東の顔を見遣った。
青春の響き、軽やかにせっかちで、すこしはしゃいだようす。せつなげに、真剣に、切実に。そんな少年のようなこころを伊東は、ちらり、と見せた。
「誰か唄ってはもらえんか」
河上がそう言うと、優しく両手でくるんだ趣の、ちいさなハミングが重なった。
遠慮がちにところどころ、つぶやくような唄声。詞は、はかない恋を唄ったものだったけれど、かなしいものではない。
いつもは冷たく硬質な音をしているのに、今この男の胸には、あどけない音色。
「兄がよく聴いていたからね」
照れくさそうなようすで、無口な男がほとんどはじめて自分のことをこぼした。また子は口元を笑って結び、にこやかに答える。優しい風が行き交っていた。
「懐かしいねぇ」
音楽につられて似蔵と茶菓子を持った武市も、部屋に集まってきた。和やかな座敷に茶の湯気と栗饅頭があたたかい。
「どうだ晋助、合唱団でもやらないか」
そう呼びかけると高杉はきゅっと顔をこちらに向けた。また子がやりましょう、と言って嬉しそうな声をあげる。
「冗談だろう」
そうは言ったものの、河上には高杉のうつむいた口元が、やわらかく笑っていたのが見えた。想像したら噴き出してしまいそうだが、合唱団。悪くはない、と思う。
ゆるやかに流れをきざむ川の音色、優しい午後に、重なる声。
うららかな、ハミングバード。
おわり
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