弱い日の夜のこと
ふりやまない雪。扉はかたく閉ざされて、通りを歩くひとの姿もない。
目を覚ましたとき、まだ外は薄明るく、枕もとの目覚まし時計でたしかめても、夜明けの五時半なのか、夕暮れの五時半なのか、検討がつかなかった。テレビをつけてニュース番組にチャンネルを合わせる。期待したほどは眠れていなくて、夕方の五時半だった。
風邪をひいてしまった。息をすいこむたびに胸の中でざらざらといやな音がする。砂が入っているみたいだ。病院でもらった薬のおかげでいくらかは楽になったが、下がりきらない熱がつらい。
仕事を休んで、毛布にくるまって、一日中ビデオを観ていた。大阪ガンナーズ、ウィッセル神戸。イーストトーキョーユナイテッドの途中で眠ってしまった。なんども観た試合だけれど、あたらしい発見が埋もれていることがある。私はそれを見つけるために、注意深く目を凝らす。まるで泥の中から砂金を見つけ出そうとする鉱夫のように。
ためしてみたいことがあるんだ。いい考えだと思う。はやく伝えたい。休んでいる暇なんかないんだ。時間がない。
情けなくていらだつ。選手たちの足をひっぱっている気がして。体が弱っているから、気持ちまで下を向いてしまうんだとつまらない考えをうち消した。何か食べて、薬をのまないと。このところ忙しくしていて、だから冷蔵庫にはほとんど何も入ってない。あまり食欲もないから、缶詰のスープでもあたためて済ませようと思う。
そのとき、携帯電話の呼び出し音が響いた。どこか私の知らないところで鳴っている。重たい体をひきずるようにしてベッドを出た。机の上にあるはずだけれど、散らかっていて、すぐには見つけられない。黒くて薄くて四角いものを、ベルに急かされながらさがす。
コーヒーが半分残ったマグカップと資料と読みかけの雑誌とサンドイッチを包んでいたセロファンをどけて、やっと見つけ出した。ディスプレイに浮かび上がる名前をたしかめて、通話ボタンを押した。
「こんばんは。具合どうっすか」
返事を用意できていなくて慌てた。心配させてすまなく思う。指導するチームの選手だから。だけれど声が聞けてうれしいと思う。恋人だから。混乱するし、とても複雑だ。でも複雑でない恋なんて、この世にない。ひとつも。偉そうなことを考えながら、しかしうろたえている。
「だいぶよくなったよ。申し訳ない。こんな時期に、休んでしまって」
「いえ。コーチから聞きました。ひでえ声っすね。しんどそう」
はは、と笑った声が力なくて、情けない気持ちになった。
「いまちかくにいるんだけど。行ってもいい?」
「な、にを言うんだ、だめに決まってるだろ」
遠いと思う。思ってしまう。小森は、冗談だったみたいにすこし笑った。
風邪をひいたって直接じゃなくて、コーチから聞かなきゃならないことや、たよってくれないこと。甘えてくれないこと。甘やかしてはくれるけど、こども扱いされてるだけみたいで、つまんない。でもそれは、あんたが悪いんじゃないんだ。大人の男になりたい。悪態ついて誤魔化さなくても気持ちを伝えられるような、きれいに響く力のある声であんたを讃えられるような、大人の男になりたい。たりなくて、至らないことばかりで、頭にくるけど。
「看病したい。俺、へいきだよ。あんたの二百倍くらい頑丈だし」
困らせるだけだってわかっているのに、馬鹿だなと小森は思う。わかっていても、口をついて出てしまう。よけいなことを言っていつも後悔している気がする。だけど考え過ぎると、途端に何も言えなくなってしまう。この恋は試合よりずっとむずかしい。だって勝ち負けなんてわかりきってる。
「はは、そうだな。でもうれしいけど、だめだ」
「うん。わかった」
すまないと思いながら、佐倉はだめだと言う。できない、だめだ、無理だ。ほんとうは聞かせたくない否定の言語。
「おみまい。置いとく。ドアんとこ」
よかったら、どうぞ。ぼそぼそと歯切れ悪く言って、小森はだまりこんだ。失敗に怯んだみたいに。
「そこにいるのか?」
「うん。でももう帰る。明日も練習だし」
でもまだ、電話をきりたくなくて、言葉をさがしている。
「たくさん寝て、ちゃんと食べなきゃ治んないっすよ。どうせ試合のビデオとか観てんだろうけど」
ちがうよ。そんなふうに言いたいんじゃない。もっとやわらかくてあたたかい、そういう言葉がいい。
「……会いたい。ねえ、俺の顔みたら元気になるかも」
なんて、また俺は馬鹿なこと言ってしまう。
「ないか。そんなの。ごめん変なこと言った。じゃあ切るおやすみなさい」
「ま、待ってくれ!」
言って咳こんで、苦しそうな息。ごめんごめんごめんって思いながら、小森はすこし熱くなった携帯電話を耳に押しあてた。
「声聞いたら、元気出てきたよ。ありがとう。明日には治ってそうだ」
うん。よかった。素直な気持ちになって、そうつぶやく。
「でもはやく帰りなさい。会いたくなって、困る」
「うん」
くちびるを結んでうつむいた。見えないから。かおが笑ってしまうのを止められないけど、見えないから、いい。
「おだいじに」
すぐに電話がきれた。この回線にはだれもいないと知らせる、無機質な音だけが聞こえる。電話をカーディガンのポケットにしまう。重ねて積み上げてあった雑誌につまずきながら、佐倉は玄関に向かった。
寒さにあかくなったチャーリー・ブラウンみたいな鼻や、階段を駆け降りる足音を思う。ドアの隙間をちいさく開けて、おまえがここにいてくれたら、とさえ思ってしまう。ごめん。髪につもった雪をはらってあげたかった。ごめん。
スーパーマーケットのビニール袋が置かれていた。中にはりんごヨーグルトとプリンとぶどうゼリー。レトルトのおかゆ。スポーツドリンク。おでこに貼る冷却シート。みかんの缶詰とバナナ。ドアを閉めるとまた咳が出て、しばらく苦しんだ。
甘えればよかった。おかゆをあたためてもらえばよかった。眠るまでいてほしいと言って困らせてやればよかった。できるわけないのに、夢みてしまう。でも寂しくはない。だってこんなに思ってくれて。
困ってしまうよ。越えてはいけない境界線を見失いそうで。この先もずっと一緒にいられたらと願ってしまいそうで。
ヨーグルトとプリンとゼリーを冷蔵庫に入れて、おかゆを電子レンジであたためて食べた。おいしくて泣けてしまった。
おわり
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