グッドヒーロー


グッドヒーロー


着替えが済んだら、ミーティングルームに集まるように。
大倉はロッカーにデイパックをおろすと、口ぐちにかけられる挨拶をきまじめに返してから、コーチの指示を伝えた。
それまで飛び交っていた冗談や他愛ない話は自然と止み、それぞれ競うようにして部屋を出た。
ドアを開けると窓が四角く光って、丸岡はまぶしさに目をつぶった。あかるく晴れた日で、気持ちのいい暑さだ。
「大阪ガンナーズとのアウェイ戦は三日後に迫っている。この試合に勝つための作戦をこれから話すから、聞いてほしい」
いままで試してきたことの延長線上にある、しかしそれは新しい挑戦だった。佐倉は理解して信じてもらえるように、そして勝利に結びつけられるように、丁寧に説明したいと思っていた。夜更けまで画面を見続けていたから、こめかみの奥が淡く痛む。しずかにふかく息を吸いこんで佐倉は話しはじめた。選手たちはテレビモニタを囲むようにして半円にならべた椅子にかけ、すこしかたい面持ちで画面を見つめている。
キャプテンの大倉は持ってきていたリングノートにときおり何か書きこみながら、熱心に佐倉の話を聞いた。ボールペンの滑る乾いた音が隣に座った村田の耳に届く。ホワイトボードのかたわらに立つヘッドコーチの戸部は、むずかしい顔でうなづき、からだの前で組んだ手をほどいたり組みかえたりしていた。
佐倉は次々に映し出される映像について説明を加え、補足し、理想とするかたちを語った。厳しい要求かもしれないが、できると信じている。いつだっておまえたちは私の想像を飛び越え、思いもしなかった世界を見せてくれるのだから。
菅野と丸岡がぴったり同じタイミングでこくりと頭をふって、瀬古は靴の中でつまさきに力をこめた。眠たげな目であくびを誤魔化すみたいに息をついたのは小森で、メンデスは戦士の石像のようにわずかも動かず、選手たちを見守っていた。
つまらなそうな顔をしているけれど、小森はちゃんと起きているし、話も聞いている。気負いすぎると失敗してしまうことをわかっているから、わざと不真面目な顔をしてバランスを取ろうとしているのだった。ひと目にはそうとは知れない態度で熱心に耳を傾け、イメージし、すべきことを体と頭にしみこませる。
たよりない監督の授けてくれる作戦には、だれもが驚くような仕掛けや経験に裏打ちされた説得力はないけれど、シンプルで明確だった。だからこそむずかしい。逃げられないし、言い訳もできない。
責任。大いなる力には大いなる責任がともなう。小森はこの映画のせりふをよく思い出している。俺はピーター・パーカーじゃないから大いなる力は持っていない。それに何か特別な能力があるってわけじゃない。でもヒーローになってみてもいい。とくに次の試合では。攻撃の起点を担うこと。それはパスをゴールに、勝利に、つなげる責任があるってことだ。
俺より上手いやつなんていくらでもいる。素質、カリスマ、運、才能。どれもたいして備わっているとは思えない。だけど、そういうものが必要とはかぎらないし、それに何も持っていないわけじゃない。見つけたもの、磨いたもの、もらったもの。俺にしかない何かがあって、それをチームのためにいかせるなら、それはとても幸運なことだと思う。幸運で、幸福なことだ。俺にその機会を、場所を与えてくれたのは誰かってこと、ちゃんとわかってるつもりだよ。
でも悪いけど決めてるんだ。そういうことは何も言ってやらないって。どう思ってるかとか、俺が考えてることとか。はずかしいからじゃない。結果を出すことで、そんなのは伝わるって思うから。見てて、佐倉さん。
「いいか、大きく分けてパターンはふたつある。右サイドバックからの……」
マーカーを取ろうとした手がぶつかって、回転式のホワイトボードがぐんとゆれる。思いがけない反動に驚いて、佐倉は、わっ、と声を上げた。だれも何も言わなかったけれど、空気がすこしやわらかくなった。おおらかな意欲がチームを包んでいる。フットボールを愛してやまない青年たちの情熱とひたむきさ。
「この動きを紅白戦で実践してみよう。十分後、グラウンドに集まってくれ」
威勢のよい返事がかさなる。それぞれ立ち上がって椅子を片付け、廊下に出た。
佐倉はスラックスのポケットから何か取り出して、めがねをはずした。指先で下まぶたを押さえて上を向き、目薬をさす。たった数十秒のみじかい時間のできごとだった。
小森は影を縫いとめられたみたいに立ち尽くして、そのゆるやかなしぐさをながめていた。溢れた透明のしずくが目の縁からこぼれて、頬を流れ落ちる。佐倉は親指で目の下をぬぐい、ゆっくりとまばたきをしてから片手でめがねをかけた。
小森はまだ動けなかった。瀬古と長谷川が何か言い合って笑う声が聞こえていた。ケンがうたうようなスペイン語でメンデスに話しかける声も、椅子を引く音も、DVDをデッキから取り出す音も、小森の耳をすり抜けてどこか遠いところに消えていった。時間は止まっていた。胸がいたい。いたくて、動けない。
だれかが泣かせたわけじゃない。ただ目薬をさしただけだ。わかっているのに、複雑にからまった気持ちが肋骨の奥でざわめいている。動いたら、そのざわざわがこぼれてしまうかもしれない。透明のきれいな涙みたいに。
「小森、行くぞ」
「っす」
野村の声で魔法がとけて、小森の足はようやく動くようになった。ふり返らずに廊下へ駆け出る。
階段を降りてグラウンドに出るころには胸は痛まなくなったけれど、ざわめきは消えなかった。小森の目はあのとき印画紙みたいになっていて、きっと焼きついてしまったのだ。あのひとが泣いていたってかまわない。俺には関係ないし、情けない顔なんか見たくもないし、きしょくわるいだけだし、どうだっていい。どうだっていいのに、ひび割れそうなくらい心臓が痛いなんてどうかしてる。こわいのかもしれない。まさか、何を。
練習はさんざんだった。たて続けにつまらないミスをして、集中しろといって叱られた。ひとの気も知らないで! 小森は不機嫌なまなざしをベンチに向けたけれど、すぐに気を引きしめなおしてボールをにらみつけた。走り出しながら、つよく思う。くやし泣きなんかさせないし、うれしくて泣くときはみんなで。
痛みはとけてしみこみ、熱になり、エネルギーにかわる。それは大いなる責任を果たすための、特別な力になる。


おわり
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