ねことあたらしい春
仙台も東京に比べれば寒かったけれど、山形の寒さはそれとはまるで違う。夜には音がなく、風は雪のにおいがした。
リーグ戦の開幕を翌週に控えた水曜日、雪をとかすように昨夜からふり続いていた雨は、今朝の冷えこみでみぞれにかわった。いつもよりはやく起きてシャツにアイロンをかけた。練習は休みだけれど会議がある。それぞれに時間をつくって集まってもらうのだから、遅れるわけにはいかない。モンテビア山形のユースチームの指導者として、一日も早く土台を築きたい。
コーヒーとトーストとつくり置きのコールスローで朝食を済ませ、傘をさしてアパートメントを出ると寒さに思わずからだがすくんだ。昨日の昼まではあたたかく、選手たちは口ぐちにこのまま雪がとけてはやく練習場が使えるようになればいいと話していた。雪かきのスコップでつくったまめも手のひらになじんだ冬のおわり、凍りそうな木蓮の枝が風にゆれている。
道沿いの植えこみに何かちいさいものが動いて、のぞいてみるとそこには茶色のねこがぐったりとうずくまっていた。子猫ではないが大人というにはちいさい、若いねこだった。姫椿のつややかなみどりを雨粒が滑りおちる。かよわい声でうなって悲しげに顔をそむけ、だけれど逃げる力さえ残ってはいないようだった。みぞれ雨のなかでいつからここにいたのか、脇の下に手をいれて抱え上げたねこはたよりなく軽く、濡れた毛はつめたかった。
「けがしてるじゃないか」
小石か何かで切ったのだろう、右の前足のゆびのあいだからすこし血が出て毛にこびりついていた。ハンカチを右手に巻いてやり、端を結んだ。シャツと一緒にアイロンをかけておいてよかった。しわのよったハンカチじゃ気をわるくするかもしれないから。
佐倉はツイードの丈のみじかいコートを脱ぎ、マフラーをはずしてシャツの上に着ていたセーターを脱ぐと、ねこをくるんだ。そうしてまたコートを着てマフラーをぞんざいに襟もとに巻きつけた。
かばんの中からラップトップを取り出して屈みこんだ膝に置き、アパートメントの鍵と携帯電話をポケットにしまうと、隙間にねこをいれた。
「せまいだろうけど、おとなしくしてるんだぞ」
押さえないように肩にかけ、立ち上がった。濡れた地面に踏ん張りがきかず、すこしよろめき、咄嗟にねこ入りの荷物をかばって転びそうになった。
両手がふさがっているから傘をさせなくて、濡らさないようにパワーブックを胸にしっかりと抱え、雨の中をいそぐ。めがねに水滴がついてよく見えない。映画のワンシーンのようだと思ったけれど体育館の通用口まではわずか五、六歩ほどで、逃避行を演じるにはみじかすぎた。
ねこはかばんの中で、そで口に毛玉のついた灰色のセーターとアイロンのにおいにつつまれて、じっとしている。
課題はたくさんあるけれど、焦らず確実に取り組んでいこう。
会議を終え、礼をいい、昼食のさそいをていねいに断って、ミーティングルームの明かりを消した。あのねこを暖房のきいた、会議に出ているからひとのいない休憩室に置いてきていた。
いやな想像をふりはらいながら、佐倉は生成のセイルクロスのかばんの中にそっと両手を差し入れた。
「やあ、元気だった? うちに帰ろう」
ねこはいくぶんあたたかさを取り戻して、佐倉を見上げるとか細くはあるけれどしっかりとした発音でにゃあと鳴いた。
雨はまだふり続いていたから、佐倉はラップトップと資料をデスクに残し、ねこだけを連れて坂道の先のアパートメントに戻った。明日の朝、すこしはやく出てくればいい。練習メニューはすでにかたまっているし、必要なことは頭に入っている。
帰りみち、児童公園に差しかかるころには雨脚はいっそう強まり、道端には氷のかたまりがそこかしこにできていた。
じっくりと見てまわる時間はなかったから、ほとんど電話のやりとりだけで決めた住まいだったけれどなかなか悪くない。越してきてもうすぐ三月が経つというのにまだぜんぜん片付かない。時間はいつでもたりなかった。
鍵を開け、コートの雨粒をはらって部屋に入り、ドアを閉める。コーヒーのにおいがまだ残っていて、なんだか不思議な気分だった。学校を休んだときみたいだ。いつもなら資料室にこもって調べものをしているか、使わない会議室のプロジェクタで過去の試合の映像をみている時間だ。あたらしい環境にはやく慣れたかった。いい結果を出して期待にこたえたい。このところ、渇いた焦燥がつねに佐倉の胸にある。
「ええと……まずはお風呂にはいる?」
かばんから出してやると、ねこはよろけながらセーターを、もちろん着ているわけではないが、脱ぎ捨て、水をはじくようにからだをふるわせた。手足の先だけがしろい、長めのこげ茶いろの毛。目は不機嫌そうに半分だけ閉じている。
「ちょっと待って、救急箱がたしかあったはずなんだ。使わないからどこにしまったのかおぼえてないんだけど」
つみ重ねた荷物をさがしていると、ひとつ箱のなかに古い雑誌の束があった。達海猛のインタビュー。みじかい記事だったけど、なんども読み返した。
「ちょっとしみるかもしれないけど」
ねこに話しかけながら、だけどどうしても考えてしまう。私のヒーロー。彼はどこへ行ってしまったのか。調べても行方はわからなかった。わかるはずがない。遠すぎる。だけどフットボールのちかくに彼はいるだろう。想像であり願望にすぎないが、確信のつよさでそう思う。追いかけ続ければ、いつか。いつか届く日がくるかもしれない。きっと。
「心配しなくていい。たいしたけがじゃないし、すぐに治るよ」
危惧していたとおりお湯のきらいなねこは暴れて、佐倉の腕に無数のひっかき傷をつけ、水玉を撒き散らし、さっきまでのしおらしさが嘘のようだった。すばらしい跳躍、フィジカル、腕をすり抜ける敏捷さ。おまえがサッカーをするならそうだな、ポジションはMFがいいかもしれないね。
バスルームのピッチを駆けまわるねこをバスタオルでつかまえ、からだを拭いてやり、もう血は止まっていたけれど念のため傷口にはガーゼをあてて包帯を巻いた。
走ったあとは食事だ。栄養をとらなきゃ。
あたためたミルクのボウルを床に置くと、おそるおそる近づいてきて、長いひげをふるわせた。ためらいは一瞬、においをたしかめて、舌先ですくう。ピンクいろのまるい鼻とくちのまわりを白くさせて、ミルクをいきおいよく舐めはじめた。
「ほんとうはおまえはよその家のねこで、いまごろうちのひとが心配して街じゅうさがし歩いているかもしれない。帰る家があってあたためてくれるひとがいるのかもしれない。そのほうがいいに決まっているのに、そうでなければいいと思ってしまうんだ。ごめんよ。せめてけがが治るまでは私のねこでいてくれる?」
ねこはミルクに夢中で返事をしない。佐倉は困ったふうに眉尻をさげて笑った。
床に寝ころんで瞼を閉じる。おなかがいっぱいになって眠くなったのか、より添ってきて鼻先がくすぐったい。雨は止んだのかな。音が聞こえない。薄く目を開ける。雨樋をつまらせる枯れ葉のひとかたまりのようだったねこは、風の吹く稲穂の海の目のいろをして佐倉をまっすぐに見つめていた。
「決めたよ。おまえの名前」
やわらかな毛並みは大地と色づいた木々の葉のようで、背中は小さな森みたいだ。だからこの土地のちからづよく、きよらかな自然からとって、小森。どうかな、気にいった?
私はまだ春も夏も秋も知らないけれど、とても美しいと聞いている。私はこの街を好きになると思う。夏にはすべりひゆが大地を覆い、秋の木々には果実や木の実がみのる。冬は雪の中で眠り、春には輝くみどりが光の雨を降らせる。山あいの美しい街。
佐倉はねこをつかまえると、胸の上にのせて抱いた。
「おまえの人生が実り多きものになるように。小森」
雨は止み、いまごろはあたらしい春の水色の風が、濡れた街を吹き抜けていることだろう。
おわり
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