僕たちの愛したねこ


僕たちの愛したねこ


「管ちゃんが悪いんだ。大きな声出しておどかすから」
「ちげーよ! おまえが近づこうとするからだろ」
 掴み合いながら騒がしくロッカールームに顔を出した菅野と丸岡を、大倉は兄のような口ぶりで叱った。しおらしく頭を垂れてあいさつをする若者たちの後ろから、すこし髪を短くした中野が顔を出す。最近ようやく風が吹いても耳が痛まなくなった。ことしはいつまでも寒かったなと思う。
「ねこが逃げちゃったっス」
「ねこって体育館の裏のところにいる? 俺が通ったときも、植えこみのとこからこっち見てたけど」
「ああ、俺も知ってます。最近よく見かけますよ。でもあいつ、にらんでくるんだよなあ」
「おまえ、嫌われてんじゃねーの」

 選手たちは口ぐちにかわいくないとか、生意気だとか、ねこらしいとか、ひっかかれるぞとか好き勝手なことを言い、村田があのねこは小森みたいだと言うと、瀬古と長谷川はよろこんでそれに賛成した。さんざんぶさいくだなんだと言われたあとだったので、小森はいやそうな顔をして、まだ会ったことのない、かわいくないと評判のねこをすこし憎らしく思った。だけれどすぐに考えなおして、こんなふうに悪く言ってごめん、と思う。トムとジェリーなら小森はいつだってトムに味方したくなるのだ。いいやつなのに、悪役を引き受けてしまうトム。
 ケンは、たしかにあのねこは賢そうで、それにとても良いばねを持ってる、と王様らしいことを言い、それを聞いた丸岡はちいさな目をきらきら輝かせて、羨ましげに小森をみつめた。
「よかったな、小森」
 肘で小突かれてもうれしくない。小森が半分閉じた目で村田をにらむと、この仲の良い先輩はちいさい三白眼をつり上げてたのしそうに笑った。
「でも俺をにらむし、やっぱり生意気だし、なあ?」
「うるせーっす」
 そのとき、ドアを開けて佐倉が顔をのぞかせた。
「たのしそうじゃないか。何を話してるんだ」
「ねこがいるんです。体育館の裏口のところに」
 息せききって、丸岡がこたえる。菅野がそれに続いた。
「それが目つきの悪いねこなんです。ぜんぜんかわいくなくって! 監督は見たことありますか?」
「薄茶で、耳のぴんと立った?」
 丸岡はみじかく刈った髪のまるいあたまをこくんとゆらして、子犬みたいにうなずいた。無邪気で果敢なプレーで観客を魅了するモンテビアの若きフォワード。
「かわいいじゃないか、あのねこ」
 佐倉がめがねの奥の目をすこし細めて、おまえたちいじめるんじゃないぞ、と付け加える。
「着替えが終わったらトレーニングルームに集まってくれ。あとそれから」
 キャプテンの大倉にいくつかの指示と用件を伝えて、両手の中の資料の束を抱えなおすと、佐倉はロッカールームを出て行った。
 小森は頬をあかくして、いつもの不機嫌なかたちにくちびるを結んでいる。かわいいじゃないか、あのねこ。どうしても頬が熱くなってしまって困る。俺には関係のないことなのに。
 よこ目にもわかるまっ赤な頬に瀬古は思わずふき出しそうになり、笑いをこらえるためにつよく太腿をつねった。かわいいんだから。
 言うとひっかかれそうなので、気がつかない顔で靴紐をていねいに結んで立ち上がった。
「行こうぜ」

 練習が終わり、陽光が黄色みを帯びるころ、小森はいつもよりゆっくり着替えてチームメイトを見送ってしまうと裏口にまわった。パンジーの花壇のところに、淡い茶色のあいつを見つけた。
 みどりがかった金色の目のねこは、たしかに目つきが悪くて、かわいくなかった。だけど何か伝えたいことでもあるみたいに、まっすぐに見つめてくるから気になってしまって、小森はまわりにだれもいないことをたしかめて、ねこに話しかけた。
「なんだよ」
 もちろんねこの考えることが、小森にわかるはずもなかったけれど、わかってやれたらいいのにと思った。美しい目はとても思いつめているように見えたから。怒っているのかもしれないし、気にいらないのかもしれない。話しかけられて迷惑なのかも。だけど見えないところが、見えるところと同じだって俺は思わないからさ。こころは目に見えないんだ。
「おまえ、かわいいって。ねえ俺も言われたい」
 ねこは何もこたえなかった。ただ黙って、眠たげな大きな目を光らせて小森を見つめている。夕暮れがちかい。
「あのひと、俺のこと好きになってくれないかなあ。どう思う?」
 ねこはゆっくりまばたきをした。金色がきらめいて、夕方の青色がすこし濃くなった。風は雨と夏のにおいがする。

 それからしばらくして、ねこは姿を見せなくなった。米田はどこか旅にでも出たんだろうと言い、村田はもともと飼いねこだったんじゃないかと話した。長谷川と丸岡は寂しそうに窓から外をながめていて、ケンがふたりを慰めた。菅野のロッカーには缶詰がまだひとつ残っていた。
 地元紙から取材の連絡がはいったと言って、フロントスタッフが監督をさがしていた。帰りかけていた小森は、伝言を預かって廊下を引き返した。
 会議室の窓辺に立って、斜めにさしこむ光にめがねの縁を光らせながら、佐倉は夕方にはすこしはやい金色の輝きをながめていた。光を反射するシャツの肩や透ける髪の先がきれいで見惚れてしまった。すこしだけ、気づかないで。目の端に時計の針が映って気持ちをせかすけど、もうすこし。影がのびている。半歩、踏み出す。硝子に映って、目が合った。
「なあ小森、もう何年も前のことだけど」
「うん」
「ねこを助けたんだ。その日は雨で、けがをしていて、だから」
 遠い日を懐かしんで、恋しく思って、いまでもとても大切に思っているような、やさしく寂しい声だった。窓を透かす光がセンチメンタルを照らしていた。
「佐倉さん、新聞の取材だって」
「わかった。すぐ行く」
「ねえ、佐倉さん」
 あんたのねこになってあげてもいいよ、というつもりで、にゃあ、とないた。めがねが光って顔はよく見えなかったけれど、たぶん笑ってくれたと思う。


おわり
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