ルッキングフォーストライプ


ルッキングフォーストライプ


 スタジアムから戻るバスの窓硝子に最初の水玉がおちて、いらいずっと太陽をみていない。
 ランニング・マシンのつくる架空のみちを走りながら、小森は四角い窓の向こうの灰色の濃淡をながめている。占い師が星の動きから運命を読み解こうとするように、じっと目を凝らすけれど雲のかたちから何かを読みとることはできなかった。暗示も、予感も、未来も。
 山々のかたちにかさなる雲、急こう配の坂道のような雲、断面がぎざぎざの崖みたいに見える雲。それらの灰色のふちを走っているところを想像する。ランニング・シューズの足の裏にごつごつした硬さを感じる。走りにくいコースだけど、おれは転んだりしない。火山の噴火で流れだした溶岩が冷えてかたまった岩肌。そのざらついた灰色。
 昨日はオフだったけど、どこにも出かけなかった。長谷川に借りた映画のDVDをみて、たまった洗濯物を片づけて、雑誌のインタビュー記事を読んでいたら眠気におそわれて昼寝をした。乾燥機のタイマーがなって起きたけど、あたたかいタオルとシーツをシャツに埋もれてまた眠くなった。
 窓硝子の雨粒がつたって落ちる。見ていると悲しい気持ちになる。理由なんかなくても。
 すぐとなりを走ってる瀬古にセンチメンタルをさとられたくなくて、何か話そうと思うけれど思い浮かぶのは灰色の大地と朝からさえない顔をしている監督のことばかり。センチメンタルは見こみのすくない恋をしてからの悪い癖。

 トレーニングが終わり、選手たちはシャワーのあとも話しこんだりしていて、だけど小森はいつになくはやく着替えを済ませ、いちばんにロッカールームを出た。見こみはすくなくても話したいと思うことは止められなくて、失敗したり怒らせてしまったりを繰り返しながら、でもずいぶん近づいたんじゃないかと思う。最初のころはもっとずっと遠かった。
「どうしたんすか、じめじめしちゃって。かびはえそうな顔」
 廊下の角をまがって歩いてきた佐倉と階段のところで出会って声をかけた。まだしばらく残って考えることがある佐倉監督の練習後の休憩を小森は知っていた。一階の自動販売機、ブラックコーヒー、みじかい散歩。
「いい作戦が思いつかないとか?」
 心配してるみたいに聞こえ小森は気恥ずかしくなって、急にそっけない口ぶりでつけ加える。
「まあどうでもいいけど」
 言わなきゃよかったといつも後悔するのに学ばない。佐倉は小森の不器用さを知っているから、いまさら怒ったりはしなかったし、生意気と口の悪さが邪魔をできないくらいには信頼が育ちつつあった。
「昨日、傘をどこかに忘れてきてしまって、みつからないんだ」
 顔に出てたか、そんなに? 佐倉が心配そうに聞くので、なんとなくと濁してこたえた。実際、ほかにはだれも気づいていないようだったし。
「心当たりないんすか、行った場所とか」
 佐倉さん、ぼんやりしてるからなあ。ならんで階段を下りながらからかうように言った。
「よく思い出して」
 知りたい。オフの日に何をしていたのか。俺が字幕を目で追ったり、Tシャツをたたんだり、ソファにもたれて眠ったりしていた時間に、あんたがどこにいて何をしていたのか。困るくらい知りたいと思う。
「ええと、昨日は昼まで資料室で去年のデータを調べてて」
「うん」
「帰りに本屋によって、病院の前のバス停からバスに乗ったんだ。でも電話して聞いたら届いてないって」
 どこに忘れてきたんだろう。その声も横顔も小森には寂しそうに見えた。
「どんなのですか、傘」
「ああ、水色の縞模様で、柄の部分が木でできてて」
 見覚えがあった。体育館の通用口で、雨粒をはらう姿をなんどか見かけた。俺もはやくに来るほうだけど、佐倉さんも大抵はやい。
「だいじな傘だった?」
「長く使っていたから愛着もあるし、それに」
 迷子にしたみたいで。置き去りなんて可哀想じゃないか。続ける声にかさなって、後ろから近づく足音に呼び止められ、佐倉がふり返った。
 お疲れさまでした。小森は顔を見ないまま言って、自動販売機を追い抜き、歩き続け、通用口のドアを押して外に出た。
「なんだよ、迷子って」

 雨は止み、かわりに風が強まっていた。にぎやかな通りに向かって歩きはじめる。聞いてしまったから。
 クラブハウスに置き忘れたならすぐに見つかるはずだ。本屋にも、たぶん市の交通局にも電話したんだろう。昨日の夕方は曇っていたけど雨は止んでいたと思う。ずっと差していたならどこかに置き忘れたりしない。幾ら佐倉さんでも。どうかな、わかんないけど。
 小森は両手をスウェット・パーカのポケットに入れてうつむきがちに歩いている。歩きながら考える。足どりを思い浮かべて、事実をならべて、整理し、推理する。シャーロック・ホームズみたいに。
 もちろん小森はフットボール・プレイヤーで探偵ではない。ボールをうまく蹴ることはできても、手掛かりを組み立てることも、真実をかぎ分けることも、ほとんど経験がなかった。でもセンスはじゅうぶんにあった。だからもし望むなら、探偵にだってなれたかもしれない。密室や血のついたバスルームがスタジアムより魅力的かどうかはわからないけれど。
「あっ」
 突然に理解する。それは一瞬で、くらい部屋に電気がつくように、何もかも明瞭にはっきりと見えるようになる。どの位置にいればボールを受け取れるか、どこへ蹴ればきれいに通せるか、わかることと同じだった。正解にたどりつかなきゃ勝てない。
 昨日は朝から雨だった。ふだん自転車やバイクのひとはバスをつかう。だからバス停には多くのひとがならんでいたはずだ。通りの向かいにはこのあたりでは二番目に大きな病院。道路をはさんでクリーニング店。第二水曜日は定休日で昨日はその第二水曜日、つまり閉まっていた。佐倉さんはクリーニング店の軒先を借りた。傘を壁に立てかけて、買ったばかりの本を読んでいたのかもしれない。しばらくしてバスがくる。慌てて本を閉じ、駆けよって乗りこんだ。傘はどこに?

 ドア・チャイムが乾いた音をたてた。洗剤とアイロンのにおい。白っぽい清潔な明るさ。
「すみません」
 クリーニング店のカウンターに背の高い男のひとが立って、シャツにかけたビニールを整えていた。透明のビニールの下で白は滑らかに光って、ほんとうに光を放っているみたいに見えた。
「傘の忘れ物、なかったですか。昨日、たぶん外に」
 水色で細いストライプで柄が木でできた傘なんですけど。
 その男のひとは薄いくちびるをひらき、口を、ああ、と言うかたちにしてすぐに、お待ちくださいと言い置き、店の奥から説明したとおりの傘をとってきてくれた。手渡され、ほんとうは自分の傘ではないけれど、たしかめてお礼をいい、先月のカレンダーを切ってクリップで束ねたメモ用紙になまえと連絡先を書いた。ねんのため。
「あの、小森選手」
 呼び止められて、心臓が緊張した。
「応援してます。がんばってください」
 急に顔が熱くなって、赤くなってないといいなと思いながら向きなおり、まっすぐに立って頭を下げた。
「ありがとうございます」
 うれしい。うれしい。がんばろう。がんばらなきゃ。
 照れくさいので小森はすばやく店を出て、大きな歩幅で歩いた。夕方のつめたさを頬に感じる。傘は右手にしっかり持ってる。
 水色のストライプ。布張りの、よく使いこまれた、きれいな傘だった。ビニール傘をすぐに壊して捨ててしまう俺にはふさわしくないような。
 いまからクラブハウスに戻ったらたぶん会えるだろう。ほめられたくて探してきましたなんて到底いえない。どうしようか。眼鏡のレンズの向こうで細められる目を見られたらそれでいいような気がする。
 うれしさに勇気づけられて水たまりを飛び越えた。虹をかけるように弧をえがき、完璧に着地した。


おわり
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