よるをあるく


よるをあるく


モンテビア山形のクラブスタッフたちは、日ごろから選手たちとひとしく規則ただしい生活をおくっている。市内といっても遊びにいくところは多くないし、すくない予算と精鋭たちで運営しているクラブなのでいそがしいからだ。
夏の連戦が終わり、風に収穫を待つ稲穂のにおいがただようころ、めずらしく宴会のはなしが持ち上がった。台風のために大雨が心配されていたけれど昼過ぎには雨は止み、無事におこなわれることになったので、それぞれに仕事を切り上げて午後七時、駅のちかくのなじみの店に集まった。
そのよるは佐倉も枝豆をかじってビールを飲んで、にぎやかな宵をたのしんだ。選手たちの前に立つとき、彼はとても優秀で雄弁だけれど、たのしく酒を飲みかわす場にふさわしい話題を持たなかったから、だれかがうれしそうに話す出来事、たとえば娘の歯が生えはじめたことや、ねこが蝉をつかまえてきて困っているというような、他愛ない、いとしい日々の話を聞き、にこにこ笑っていた。
黄金色の気泡が輝き、コップについた水滴が指をぬらした。監督をねぎらい皆どんどんついでくれるので、佐倉はいそがしくコップをからにした。

たいへん機嫌よく千鳥足になって、だれかれかまわず背中をたたいて激励していた戸部をタクシーに押しこみ、飲みたりない若いスタッフたちが次の店へ歩いていくのをひらひらと手をふって見送ってから、佐倉は腕時計をたしかめた。十時をすこしまわったところ。すこし歩いて酔いをさまそうか。
ヘッドコーチとドクターにはさまれて座ったのがよくなかったのか、思いのほか飲んでしまって、ふわふわしている。ひとりになると急に足もとがおぼつかなくなった。
大通りへ出ようと歩きかけたところで、ポケットのアイフォンがふるえた。大学時代の友人からのメールが一通、結婚しましたという内容で、返信はせずにメールを閉じた。もうずいぶん会っていない。見覚えのあるいくつかのアドレスへあてた、一斉送信のテキスト。あとでお祝いのメールを送ろう。大学ではサッカー部だった、いまはたしか商社勤めの友人に。
三回鳴らしてみるだけと誓って、着信履歴に二番目に電話をかける。回線はだけど、数えるまでもなくすぐにつながった。心の準備ができていなくて、あっ、とみじかい声を出したあと押し黙っていると、ためいきと苛立った声が聞こえた。もしもし、なんすか。電波を通すとより不機嫌に聞こえてすこしこわい。

「こんばんは。はやい、な」
「こんばんは。今メールしてたんで。なんか用すか」
「えっと、いや、とくに用事はないんだ」
声が聞きたかっただけだなんて女の子みたいなことを言えないから話題をさがすけれど何もみつけられない。こいつは私を好きだというくせに依然として物言いがきついから夢をみていたんじゃないかと思ってしまう。こんなふうに酔っているときはとくに。ぜんぶ夢だったら、嫌だな。
「飲み会だったんでしょ。たのしかった?」
「うん。たのしかった」
「よかったっすね」
通りを走る車のライトが追い越していく。まぶしくて目を閉じると、からだが傾きすぎてよろめいた。
「わっ」
「なに、だいじょうぶ? 佐倉さん今どこにいんの」
「だいじょうぶ、大丈夫。ここはえっと、どこだ。駅の近くの、道路」
「わかんねー」
ほんとうにここはどこなんだろうか。ずいぶん離れてしまったみたいだ。にぎやかな通りを歩いていたはずなのに。
「ああ、ガソリンスタンドがみえる。国道の交差点の……あれ、逆方向だな」
「そこで待っててください」
回線は一方的に切られてしまって、不在を知らせる単調な音が聞こえるばかりだ。
「かってに切るなよ」
送話口に向かってつぶやいても返事はない。ツーツーツー。

佐倉はだれもいないバス停のベンチにかけて小森を待った。風が気持ちよくて、このまま眠ってしまったら風をひくだろうなと思うけれども、瞼が落ちてきてしまってどうしようもない。かばんを抱えて前かがみになり、あたまをのせた。
オレンジの香りがする。この近くに果樹園はあっただろうか。
「佐倉さん」
肩をゆすられて目がさめた。夢をみていたと思うけれど、瞬くまに消えてしまった。
「電話出ろよ。すげぇさがしたんすけど」
「小森」
どうしてここにいるんだと言いかけて思い出す。電話のこと、待っていたこと。
「……ああ、すまん」
ほんとうは会いたいと思っていた。うそみたいだ。うれしい。
「遅くに悪かったな、呼び出してしまって」
「だって電話、何いってるかわかんねぇし」
「声が聞けたらそれでよかったんだ」
酔っているせいだ。こんなふうに言うべきでないことはわかっていた。
「……そうすか」
「でも会えてうれしいよ」
近づきすぎないように、溺れないように、私たちはいつも気をつけている。できるだけ長く一緒にいたくて、そのために距離を置いている。ほかに優先すべきことがあるし、ふたりとも、きっとあまり上手じゃないから。
「これ着てください」
小森はパーカーを脱いで佐倉に押しつけた。断られるまえに早口でまくしたてる。
「こんなとこで寝ちゃってさー、ほんと風邪ひくとか迷惑なんで。夏終わったけど、いま俺たち微妙な順位だし、カップ戦だって」
「わかってるよ。ありがとう」
着ると小森のつけてるコロンの香りがした。オレンジと草花のあまくてにがい香り。Tシャツの肩を街灯がやわらかく照らす。小森は背中を向けて、マウンテンバイクのスタンドを跳ね上げる。がちゃんと大げさな音をたてて。
「歩けそう?」
「もちろん」
いきおいをつけて立ち上がった。

「家、来ますか。ここからだと佐倉さん家、逆方向でしょ」
「……迷惑でなければ」
「なんで、迷惑じゃないよ。でもほんとに歩く? そんなに遠くないけど、三十分くらいかかるっすよ」
引き返して大通りに出ればまだタクシーをつかまえられる時間だったけれど、明日はオフだし、家で仕事ができるように持ち出せるものは持って帰ってきている。すこし休ませてもらおうと思う。朝になったら、歩いて帰ればいい。
角を曲がって暗い道がしばらく続き、小森は自転車のライトをつけた。円錐形の明かりが白くアスファルトの道路を照らした。
「好きなのか」
「えっ、何が」
ソニック・ユースのディスク・ジャケットが描かれたTシャツを指さす。
「ああ、うん。まあね」
「大学のころ、一度ライブをみに行ったよ」
小森は古いバンドも好きなようで、音楽の趣味は存外に合う。仕事用のマックブックには小森の持ってきたCDがいくつかインストールされていて、危なく思うけれどゆるしてしまっている。
「ちょっと休む? その角に公園がある」
暗いからよくわからないけれど、ずいぶん歩いたと思う。風はつめたいのに額に汗をかいていて、手の甲でぬぐうと思いのほか熱かった。
公園にもちろんひとはいなくて、いくつかの街灯が花壇とすべり台になった時計塔を静かに照らしているばかりだ。
うながされるまま佐倉はベンチに座り、ふうと息を吐き出す。小森は自転車をとめると、通りとは逆の方向へ歩いていこうとする。
「どこへ行くんだ」
うんざりしたように、すぐ戻りますと言った。あまえてしまって怒っているのだろうか。でもそれなら無理に来てくれなくてもかまわなかったのに。街灯の照らす円の外は真っ暗だ。太腿の下で砂がざらつく。
うなだれていると、頬につめたいものがあたって飛び上がった。
「水、どうぞ」
「び、びっくりした……」
ペットボトルを差し出される。心臓が痛いくらいに拍動している。どうしておまえは私に意地悪ばかりするんだ。好きだというくせに。どうして。
「ああ、ありがとう。すまんな。ええと、さいふさいふ」
「いいよべつに。あんたけっこう酔ってんじゃん。どんくらい飲んだの」
「さあ、はは」
力なく笑って、あとで払うからとつけたした。プラスチックのキャップをあけて水を飲む。すこしこぼれて、顎と喉をつたう。
「昨日また泊まりだったんすか。会議室、遅くまで明かりついてたから」
瀬古たちと飯いって、帰りに近くを通ったんだ。佐倉さんまだ仕事してんのかなって言っててさ。小森はとなりに座り、コンバースのかかとで砂地にスマイルマークを描きながら話した。
「いや、うん、カップ戦でためしてみたいことがあって、それで」
「あたまくさい」
きゅうに顔が近くなって抱きしめられるのかと思ったが、あたまのにおいを嗅がれただけだった。おまえが何かするたびにどきどきして困る。
「な、んだ、ひとが話してるときに!」
夜は静かすぎるからきっと心臓の音が聞こえてしまうだろう。ひどいやつだ、まったく。私をいつもからかって、馬鹿にして、夢中にさせて。
「すみませんでした」
小森は反省しない謝りかたで謝って、たのしそうに笑った。

「……ねこが蝉をとってきて、誇らしげに見せるから叱れないんだって」
「は、なんの話っすか」
「みんな、家族とか、恋人とか、ねことか、だいじなひとの話を聞かせてくれて、私は」
こんなことをほんとうに言うべきではないのだろう。それなのにどうしても言葉があふれてしまって止められない。
「私は、おまえのことを話せたらいいのにと思ってた、ずっと」
「俺のことって、何を」
顔がみえないからか、声をより近くに感じる。ふれられているみたいだ、そのあたたかく力のつよい手に。
「そうだな、たとえば、炊きこみごはんが好きだとか、右利きだけど歯ブラシは左手で持つとか」
「……そんなことだれも興味ないっすよ」
「でも話したかったんだよ。だいじなひとのことを、私も」
小森はくちびるをきつく結んで黙っている。半袖の腕が寒そうで、それは私がおまえの服を着ているからだし、できるならさすってあたためてやりたいと思うけれど、でもふれてしまって歯止めがきかなくなったら困るから私はそうしない。ごめん。
「帰ろう」
何か言いたげな顔で小森はうなずき、靴底で砂をならしてスマイルマークを消した。


おわり
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