ちいさいあなたの手を引いて


こどもごっこ

ひゅるり、ひゅるり。遠くで笛が響きだすのを、耳鳴りのように聞いていた。町の向こうに落ちる夕日があたりを淡く染める頃。
道場裏はこのところ、山崎の気に入りの場所だった。屋根ががうまく西日をよけて、ほかの場所よりすこし涼しい。
今日はもう仕舞いだからと早々に着替え、硝子瓶に冷やした麦茶を用意して、ひとり濡れ縁に腰掛けた。
のびた草が、裸足の指先をくすぐった。

しばらくして廊下を歩く音がした。いちばん近しい、踏みしめるような歩みを聞くと、山崎ののど元はきゅっとちいさく縮こまる。 蒸し暑さにへこたれ気味の背筋をしゃんと伸ばして、足音が止まるのを待った。
「お疲れさまです。副長」
「こんなところにいやがったのか」
「なにかご用でしたか? すみません」
探されるのは、申し訳ないけれども嬉しい。必要とされてる感じがする。こう暇があるときに探されるのはとりわけ嬉しい。
「いや、用ってほどでもねぇんだ。茶、俺にも一杯いれてくれ」
「湯呑みいっこしか持って来ませんでした。これでいいですか?」
土方は、すぐとなりにあぐらをかいて煙草の箱を取り出した。
「いい、いい」
ひと息に飲み干して深く息を吐く。すっとくつろいだ顔になる。それから心底うまそうに煙草をくゆらせて、暑ぃなあ、とぼやいた。
「もう祭りの季節ですからね。お囃子がここまで聞こえてきますよ」
詰め襟のシャツに淡い群青を映して、土方はなんにも言わないまま祭り囃子を聞いていた。一秒ごとに夜がせまる。やがて夏草の影の境も消える頃、思い出したように、言った。
「なあ、行くか、祭り」
勢いをつけて土方が立ち上がる。腰にひっかけた手ぬぐいが、なまぬるい風にはらり、と揺れた。

「うわあ、すごいにぎやかですねぇ」
屯所のいちばん近く、稲荷を祀ったちいさな神社では夏のはじめに祭りをひらく。すっかり陽は暮れ落ちて、縁日の提灯があかあかと宵を照らしていた。子供のはしゃぐ声と祭り囃子、夜店の活気が蒸した夜をいっそう暑く火照らせている。
山崎は嬉しそうにはしゃいで、ひとつひとつ、夜店の前で立ち止まる。そのたびに、わあ、と声を上げて、ものめずらしそうにながめていた。
たくさんの音たちがひとつに混ざり合って、ゆらゆらと夜の底に沈んでいる。砂利をはじく下駄の音、威勢のいい香具師の呼び声、山崎の、ごく控えめな歓声。

「あ、あれ」
数歩前を歩く山崎が、目をやる先には赤と橙色のあんず飴。
「つめたそう」
すこし溶けた氷のくぼみ、ひとつぶんにおさまる飴は、提灯のあかりを受けてきらめいている。
ほうっと見惚れているので、土方はひとつ買ってやった。山崎は屋台と土方の顔を見比べたあと、もなかの皮に乗せて差し出された飴をそろりと受け取った。手のひらにうっすら、つめたさが伝わる。
「ありがとうございます。さとでは見かけなかったので、なんだかめずらしくって。こっちへ出て来て知りました」
「へぇ。どこにでもあるもんじゃねぇのか」
「西の方ではね、りんごに飴を絡めたのが売ってますよ。まっ赤で、食べると舌が赤くなるんです」
細い髪を濡れた額に貼りつかせて飴をなめてる横顔は、歳よりいくらかおぼこく見える。
「どんな町だった? おまえが暮らしたところは」
山崎が入隊してから、かれこれもう長い付き合いになる。けれど育った町などについては、あまりよく知らない。ときどき今でも言葉になまりが混じるのを、土方は実はこっそり気に入っている。
「おんなじですよ、江戸と。にぎやかで暑くって」

うら寂しい気持ちになるのは、郷里を離れたからじゃない。消えかけた遠い昔のできごとが、なにやらとても懐かしく美しい思い出のように感じられてしまうからだ。
「総悟がな、誘ってこなくなった。昔は祭りの頃になるとそわそわしちまって近藤さんも俺も、そりゃあ手をやいたもんだ」
ひとりごとのように言った。こんなことを話すつもりはなかったのだ、と考えながら。
「勝手に大人んなっちまうんだよなァ」
「寂しいですか」
「んなわけねぇだろ。せいせいするよ」
ちいせぇくせによく食いやがるし、あっちこっち走り回って目が離せねぇし。
「じゃあ今度は、土方さんが子供になっていい番ですよ」
とてもいいことを思いついたような顔で、山崎が声を弾ませる。
「俺がなんでも好きなもの買ってあげます」
土方はなんと言っていいか迷った。嬉しいような照れくさいような、ちょっと納まりが悪いような。
「あ、射的! 射的やりましょうよ」
ふたりして、てんでばらばらの方向へ弾を飛ばしきって、また参道へ出た。人波をすいすい分けてゆく山崎に引っ張られながら、土方も後に続いた。
つまらないことで気を遣わせて、あとで悔しい思いをする。だいたいはこの繰り返しだった。もっとうまくやれないものか。つけたい恰好もつけられないで、焼きとうもろこしと水ふうせん、それから輪投げで取ったぶさいくな犬の置物を持ったまま、お参りをしてから混み合う道を引き返した。
「さっきおなじと言いましたけど、こんなに楽しくはなかったように思います」
山崎のちいさい目のなかで縁日のあかりがちかちかしていた。土方は、まぶしい、と思った。

「おまえよくこんな道知ってんなァ」
さんざんはしゃいだあと遠回りだけれどすいている、裏の通りを選んで帰った。夜風は涼しく、近くに水路でもあるのか、かすかな水の音がしていた。
「今度は俺が子供の番です。ちゃんと手つないでてくださいね。転んだりしたら俺、大きな声で泣きますよ」
びーびーわあわあ泣いてやりますから。そう言って、汗でしめった右手をつなぐ。山崎の手はいつもよりずいぶんと熱い。だいたいはどっちつかずの、なまあたたかい手をしているのに。
「山崎、そっちの手ェ貸してみろ」
土方は、内緒で買ったおもちゃの指輪を、山崎のくすり指にひっかけた。
半月のうす青い月明かりにかざして、山崎はためつすがめつながめてから、うわずった声で礼を言った。赤い飾りのついたおもちゃの指輪。提灯のあかりのような、水のなかの金魚のような、夢のひと夜の色だった
「勝手になんでも決めちまいやがって。俺ァおまえと来たかっただけだよ」
土方はすっかり大人に戻って言った。暗い道には誰もいない。どのあたりでくちづけてやろうか、そんなことばかり考えていた。


おわり
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