迷い迷い


こいのみち

唐紙の向こうから、わずかに声がこぼれている。懐かしい調子をつけて、ぽつりぽつり、小さく唄う。
半分だけ開いた格子窓の外はうす青い空で、ずっと遠くまで同じ色、同じ濃さ。まっすぐ正面に、抜けるような空の色。目が一瞬、眩む。
「あ、副長。早かったですね」
「どうだ。動きはあったか」
「はい。申し上げます」
きっちり姿勢を正して、町娘の格好をした山崎は向き合った。
斜向かいの小間物屋はかねてから攘夷志士の集会場と目をつけていた場所だった。山崎たち監察が店に出入りしたり、こうして見はったりなどして情報を集めている。
一時のあいだ、店に出入りは三人、飛脚風のものが一人、そのあとの二人組はあたりを伺った様子あり、どちらもまだ店をでていない、と報告した。
「決まりだな」
それから、とわずかに身を詰めて続けた。紅いくちびるがつややかで、話し終えるたびにきゅ、と結ぶ。ためらうようにすこし、開く。町娘にしては大人びている。
「二階と屋根のあいだに隠し間があるようです。ほら、あそこに小さな窓が」
土方は早々に煙草に火をつけていて、ふうう、と煙を吐いている。
「おめぇちょっと紅が濃すぎるんじゃねえか」
「え、そうですか?」
「地味な顔には似合わねえよ、ばーか」
「ひどいですねぇ、これでも研究してるんですよ」
青とからし色の縞のきもの、きっちり詰めた襟元、うしろで結わえた黒い髪にはくしがひとつ、控えめに飾られているだけ。
すこしふつりあいに色めいたくちびる。可憐、なんていうのはあきらかな贔屓目。馬鹿らしい、けれど。
ほんとうは素直に抱きたい、と思った。なぜか、そう思わせたのだ。自分のものにしてしまいたい、そんな欲を持たせる色があった。この地味な町娘には。

「副長は着物、あつらえたんですね」
言いながら傍らの煙草盆を引き寄せて、そっと胡坐の前に差し出す。
「あ?ああ、前のはやぶいちまってな」
「似合ってますよ、大島ですか」
灰を落とすあいだに、ふふ、と紅いくちびるがわらう。とても、可憐に。
「着慣れねえと肩がこりやがる」
隊服では出入りできないから非番の日の着流しで、懐に財布と煙草だけで様子を見に来た。そこへ多少の下心があったと否定できないこと、つい先ほど自覚した。
「十分経ったら起こしてくれ」
「はいよ」
土方はあたまの後ろで腕を組み、ごろり、と横になってまぶたを閉じた。言い心地だ。さわさわと風が頬を撫でる。通りの喧騒は遠くかすれ、意識はすぐにもやがかる。

江戸に出てくる前だから、もうずいぶん経つ。
いつだったか、帰りが遅い新人隊士たちを探しに出たことがあった。入り組んだ通りはどこも同じ町屋が並び、てんで見当がつかない。探すうちに自分がいったいどこにいるのかも見失ってしまうような、細い小路の碁盤の目。
唄で覚えると迷いませんよ、と言ったのは山崎だった。そんなもん唄えるか、と一掃したけれど、それが妙に耳について今になっても調子を覚えている。通りの名を並べた唄だった。
行く先々で面倒をおこす沖田に手を焼き、若い隊士を毎日怒鳴りつけていたあの頃。忙しすぎてほとんど覚えてはいないが、なぜかその記憶だけが、空を染めた茜のように違う色を放つのだった。
その頃からミントンばかりしていたこいつが、いっぱしに女装もこなすようになりやがった。昔は料理屋へ内偵に行かせると皿を割ったらしく束の請求書が届くし、とにかく失敗ばかりが目立った。何度殴り飛ばしてもへらへら俺のあとをついてきた。それは自惚れだろうか。
懐かしい。
いつからか、呼べばすぐそばで声がするようになり、なんでもかんでも言いつけるようになった。なにか特別なことをしてやった覚えはない。
機会を見つけては名を呼んだ。適当な用事を探して名を呼んだ。
俺はいとおしさを勘違いしている。迷ってしまって、もうわからなくなってるんだろう。

「そろそろ」
ぼんやりと声が呼ぶ。ほのあかく空が染まっている。同じ色だ、あの日の町と。
「起きなあかんよ」
きゅ、とわらったくちびるが、おどけるように言った。
「なーんてちょっと色っぽくないですか」
「おまえが言ったら台無しだ、ばーか」
「ひっどいなあ、もう」
朝顔の描かれたうちわをくるくる回す山崎は夕暮れ色に影を染めて、傍らに座っている。ああなんだ、煽いでくれていたのか、と気づく。自惚れではない、と思う。

「おい、帰りに紅、買ってやるよ」
「へ?」
「その色似合わねえからな。ぶさいく」
「…じゃあ、選んでくださいね」
知れば迷い、知らねば迷わぬ、いや知っても、そうでなくとも同じ。
不意打ちに、紅く色めくくちびるを奪った。
俺のものにしたい。誰かのものになっちまう前に。
ほんとうは町娘ではないのだから心配も当て外れだ。それでも、そう思わずにいられなかった。焦りのようなくすぶりだって、思えばもうずいぶん前からなのだ。うまく距離をとるのだけは、うまいこいつに任せていたけれど。 茜の色ならよく似合うに違いねえ、そこまで気づいてしまったら戻るよりは進もうか。
どうせなら迷うのも悪くない。 唄が道を教えるだろう。

細い指の先が、まだ糊のとれない土方の袖を掴んだ。 恋に迷うは命がけ。されど覚悟は決めてしまった。恋の道。

おわり
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