あなたが言うなら


彗星

夏のおわり。松平のともとして、土方はしばらく江戸を離れていた。張りこみから戻ったやまざきとは、ほとんど入れ違いだった。
そんなことが二度も続いた。それに、二度目の調べはいつ戻れるのかもわからない、危険なものだった。
神様も意地悪なことをするものだなあ。
山崎は、そんなことをぼんやり思いながら、舟で河を渡っていた。廊下で会釈を交わしただけの、ほんの一瞬のできごとが、もしも今生の別れになったりしたら、それはさすがに、さすがにかなしすぎる。 あんまりだと思うのだった。
攘夷派とかかわりのある、だけど、捕りたてるにはこれといった決め手のない呉服問屋の主人が、ようやく動きをみせた。これは、何かある。
山崎は、これまで女になりすまし、店に出入りをして手代から、それとなく話を聞き出していた。ほかに着て行くあてのない、きものを二着、三着と、あつらえるうちにこれはいよいよあやしいと、気ばかりが焦っていた。
この件はおまえに任せる。
まだ息が白く浮かぶ季節に、料理屋の座敷でそう告げられた。盃に光る酒の、くちびるでふれたあたたかさまで、しっかり覚えている。
これは祝いのつもりだよ。
ほとんど聞こえないほどの声がかけられたことも、忘れるわけなどなかった。
思った通り。
半年あまりの苦労がやっと、実を結ぶかもしれない。
店の主人は御禁制の薬商いを通して、攘夷一派とつながっていた。京には立派な蔵屋敷まで持っていて、護衛と称し幾人かの浪士を囲っている。
今日、明日に何かことが起こる気配こそなかったが、これは危ない。証拠となる書状をひとつ盗みだすと、山崎は喉もとがひりひりする思いで急ぎ、江戸に戻った。
最後の渡船をつかまえて、屯所の近くまで戻ったころには、すっかり夜になっていた。
いつのまに季節がかわったのか、そこかしこで虫の声が聞こえている。
初がつも、もうすこしでおしまいだ。
橋を越え、かぶき町の通りに入るところからは、ほとんど駆け足になっていた。
はやく、はやく、報せたい。
この辻を曲がれば屯所の真裏。山崎は、すう、と息を吸いこんで、もとの歩くはやさに戻す。
ああ、まずは、なんと言おうか。
ただいま戻りました。口のなかだけで、ちょっと練習をしてみる。ただいま戻りました、副長。
歩幅五つほど先、堀の影にちいさなあかりが灯っている。じわり、あかくなって、消えかけた。ほたるみたいな、光。
あっ、と思ったときには遅かった。
「おう、山崎。帰ったのか」
驚いて、せっかく練習した挨拶も、うまく言葉になってくれない。
「もどりました。ただいま、戻りました」
「うん。おかえり」
煙草の匂いが懐かしかった。懐かしいより、うれしかった。
「待ってて、くださったんですか」
「いや、煙草買いに、出てきただけだ」
そのうそが聞きたかった。こんなに遅くにあいている店なんて、この近くにはないのに。
背中を向けて、土方は歩き出した。裏戸まで、わずかな、ちいさな、帰り道。
こんなふうにいられたらいいな。明日もあさっても、ずっと先まで、こんなふうに。
そう思ったとき、きらり、空に星がひとつ、こぼれた。星屑を糸でつないで流したような、とてもきれいな彗星。
ほんとうにすこしのくるいもなく、ぴったりおなじ瞬間だった。これはもう、叶い届けられるに違いない。
思わず足をとめた。
「どうした」
路地の隙間、土方の影がふわりと山崎を包む。
「いいえ、なんでも」
ひゅう、と星がまたひとつ、またひとつ。
「ねえ、これは」
奇跡でしょうか。言ってしまったらいけないだろうか。叶わなくなってしまうだろうか。
「ああ、花火。総悟と原田が残った花火やっちまおうって、出掛けて行ったが、それかな」
「花火……」
いいことが起こりすぎたりしたら、いさめられるように、この世のなかはできているのかもしれない。浮かれないでしっかり、そういられたらいいのだけれど、それなら最初から、うれしがらせをしないでほしい。うかうかと、いたずらに乗ってしまうなんて、そんなの。
「花火、やりたかったのか」
山崎は急におかしくなって、吹き出した。もらってきてやろうか、と土方が心配そうに言うから、ついに笑いが止められなくなった。
「ちがう、違うんですよ」
両手で顔を隠して、ふるえる声をどうにか抑えこむ。
「さっき、花火が流れ星に見えて、それが願いごとを思ったときとおんなじだったものですから、もう、うれしくなって」
声はすこしかすれて、泣いてるみたいに響いた。
「ちょっと残念ですけどね、そっか、花火」
また歩き出す。帰り道はあと一歩。彗星のかたちの花火が、いくつもいくつも、空いっぱいに上がる。金色の星屑を撒いて、藍と紺の空を流れてゆく。
「叶うさ。これだけ上がりゃあ、星より効き目があるだろう」
戸に手をかけたまま、土方が言った。
「はい」
このひとがそう言うのなら、と山崎は思った。
もう叶ったとおなじことだ。ぴったり、すこしのくるいもなく、叶えられたとおんなじことだ。
「副長、ご報告があります」
「ああ。部屋で聞こう」
軋む戸を閉める。屯所の庭にも虫の声、空は光の海だった。


おわり
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2010/08/22 Comic Cityにて配布しました、夏ペーパーの再録です。
もらってくださった方、ありがとうございました!