今だけ自分を甘やかして


桜の幹

桜の木が紅を湛えて揺れている、寒の戻りの三月半ば。
花を染めるための色がにじみ出して、ほの紅く幹を、枝を、色づかせているけれど花はまだひとつも咲いていない。
木肌は打ち明けられない恋でもしているみたいに、色づいてきれいになって、春を待っている。

山崎はその傍らで立ったまま、両手で顔を覆った。心細かった。かなしさと寂しさの混ざった、春の匂いのせいだと思う。
自分のすることで何かがそこなわれる瞬間のあのおそろしさは、息を止めていても、すこしも減ってゆかない。
そんなふうに思っていること自体、褒められたことじゃあない。
だから仕事の後は時折、ここに立って待つのだった。体のずっと深くに気持ちを隠してしまうまで。

木々はちょうど屯所の裏に並んで植わっていて、春には花が、夏には青葉が、通りの向かいから稽古場の屋根を覆った。
昔は寺町だったらしいこのあたりの町の名残りは今でもかすかに残っていて、山崎は時々それを、帰れない場所のように思った。
どこかへ帰りたいわけではない。ただ、過ぎてしまった日々の細々としたことが、とても大切だったように思われて、寂しくなるのだ。
空はすみれ色。まだ若い桜の木が、花をつけるのはもう近い。

「冷えるなァ。もう春なのによ」
「ああ、副長。…びっくりしました。いきなり」
「山崎、なんかあったか?」
土方が煙草に火をつけると、暗がりの通りに一瞬あかりがさした。
「いえ、まだ何もそれらしい動きは…」
「仕事のことじゃねぇよ」
うまく笑ったつもりだった。上手なうそはお手のもの。
「何も、ありませんよ」
「そうか」
それなのに、土方にはいつでも見透かされている気がしていた。見ないでいてほしいのと嬉しいのが半分ずつ。
知られるのはこわい。でも、知っていてもらいたい。
こころの奥にある、隠した不安を打ち明けたかった。かなわないことだけれど、時々抱えきれなくなりそうで苦しくなってしまう。

「咲くのも近いな。幹が紅い」
「花の色が、詰まってるんです。昔何かで聞いたんですけど、咲く前は色がにじんで紅くなるって」
「へえ」
木肌から淡く、匂いたつような秘密がこぼれている。でもそれは、花が咲いたら誰もがこころを奪われるほどの美しさになる。
この体に詰まっているのとは大違い。山崎はちいさくため息をついた。白い息は雪洞のように、夕暮れにほわり、と溶ける。
「辛ぇのか」
「いえ、そんな。…仕事ですから、なんとも思っていません」
「それなら、まあ、いい。しっかりやれ」
土方は、そっと山崎の頭に手を置いた。子供にするように、ぽんぽん、と二度叩いてから、裏木戸をくぐって屯所へ入って行った。背中はすぐ、見えなくなった。

ほんとうは信じたかった。もっと痛むだろうことをわかっていても、信じていたかった。そう願うのは裏切りかもしれないと、思えば余計に辛くなった。
自分の弱さと覚悟のなさが、何より山崎を責めたてた。
「……副長、」
とても言えはしないけれど、もしもあのひとがそれを知ってくれたなら、どんなにこころ強いだろう。どんなに報われるだろう。

山崎はおそろしくなって泣いた。失くしてゆくことを、思って泣いた。
体になかは濁流で溢れている。きれいじゃない秘密とその秘密が壊す誰かと、いろんなもののために、泣いた。

おわり
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