一月の水仙


水仙

日が沈む頃になって宿を出た。つめたいからっ風の吹く夕暮れだった。暖をとるためにどこか料理屋で一杯ひっかけようと考えながら、高杉は町のはずれまでふらふら歩いた。
向こうから、ざくざく、と砂利を踏む草履の音を元気よく鳴らして少年が駆けてくる。お下がりだろうか、小倉の、やけに大人っぽい袴をはいて胸には書を抱えている。短すぎる前髪が煽られて真上に逆立っているのと真剣な顔つきとが、ちぐはぐでおかしかった。近付いて、すれ違って、遠ざかるあいだ、高杉は昔のことを思い出していた。まだ、勉強のよくできるしっかりもののお坊っちゃん、だった頃のことを。
先生の遣いものの帰りだったろうか。預かった書を抱いて暮れていく田舎道を急いだ。糊をつけたばかりの袴はばさばさと足さばきも悪く、幾度も転びそうになった。そんなことばかりよく覚えている。もう先生の顔も忘れてしまいそうだというのに。
遠ざかる足音を聞くともなしに聞きつつ、昔のできごとをなぞった。
今と同じくらいの頃だった。水仙が咲いていた。
灯りを持っていなかったから、真っ暗になるまでに届けなければいけない。気ばかりが急いてしまってどうにもはがゆく、慣れない町中ということもあったのか、妙にそわそわしていた。
そのとき、石ころにつまづいて、どさり、と転んでしまった。大事に抱えた書物は無事だったけれど、突っ伏す格好で転んだから、額をすりむいて痛かった。
あら、とあたまの上で声がして、色町の酌婦がひとり立っていた。そのひとは懐から手ぬぐいを取り出して、額の砂と血を拭ってくれた。花の匂いがした。雪のように淡い、つめたくきれいな、花の匂いだった。

母ともだれとも違う、やわらかな声だった。今までに聞いたことのない、それは、女の声だった。
あまりの美しさと見知らぬ色気というものに圧倒されて、礼もうまく言えたかどうかわからない。その情けない思いに三日ほど苦しんだ覚えだけがある。まさか先生に打ちあけるわけにもいかず、銀時や小太郎じゃ頼りがない。だからだれにも言わずにおいた。それきり思い出しもしなかった。
酌婦も女郎も見慣れてしまった今となっては、なんとうぶだったことだろう、と思うけれど、きっとそのときはじめて、女を見たのだ。
そのひとの帯に、美しい白い水仙が描かれてあった。女というのは花のようだ、と思ってひとり赤面した。不埒なことを考える自分を恥じた。
水仙は道に咲いていたんじゃない。女の帯に咲いていたのだ。もしくは、女そのものだったかもしれない。
まったく、ばかばかしい。高杉は思い出をしまいにして、一本道を逸れた。

町外れの料理屋は前に一度、万斉と連れだってのんだことがある。場所もよく覚えていなかったけれど、ほかに店もないような寂れた場所だったからすぐにわかった。赤い提灯がひとつきり、軒先にぶら下がっている。
奥まった席に腰掛けて適当に頼み、筑前煮をさかなに一杯やった。いくらのんでも酔うことはない。酔っぱらい方を忘れてしまったのだと思う。くだらないことのかわりに、酔い方くらい覚えていたかった、などという気もする。
すこしばかり体があたたかまってきたところで料理屋を出た。別段はやく帰らなくてはいけない用事もないのだけれど、客がくるらしいのだった。
客がくるときに限って出掛けるのは、高杉の癖というか習わしだった。待つことがどうにも苦手なのだ。息苦しくていけない。

きた道をゆっくり引き返していると、月明かりにおぼろに浮かぶ女の姿があった。どうやらしゃがみ込んでいるらしく、髪飾りがきらりきらり、と輝いている。針金のような月だから、足元すら心もとない。
「どうかしたかい」
「あっ、いえ、鼻緒が切れてしまって」
「見せてみなよ」
ほとんど手探りで手に取ると、しぼりの鼻緒は結び目のあたりでちぎれているらしかった。手ぬぐいも持って出なかったので、高杉は煙草入れのひもを抜いて鼻緒に結えてやった。
「暗くてよく見えねえな。まあ、帰るまではこれでもつだろうよ」
「すみません。ありがとうございます」
「灯りはねぇのかい。危ないだろうに」
「ええ、近くですから」
顔も見えない暗い道で、かすれたような、鼻にかかった声だけが、やけにのんびりと聞こえている。そういうしゃべり方なのだろうと思う。
「気をつけなよ。お嬢さん」
「ありがとうございます」
あたまを下げて歩きだした女をすれ違いさまに振り返った。
どこの娘か知らないけれど、女が花だとすればさっきのは、野道に咲くのが似合いの娘だったから、江戸の夜にひとりきりで歩かせるには少々心配な気もした。月は細いけれど雲はない。無事に帰れればいい、と思った。

宿の近くの辻にさしかかると、のろり、暗い影が浮かんだ。
「やあ、どこへ行っていたのでござるか。またそんな寒そうな恰好で」
どこぞの娘を心配しながら帰ってきたと言ったら、この男はどう思うだろう。
「散歩だよ」
大きな歩幅が歩みよるのがわかる。もう三日も待っていたふうに急いでいるから、なんとなしに、はやる気持ちになった。
だから待っていられないのだ。朝からこんな調子でいたんじゃ、気ぜわしくっていけない。
「花売りとすれ違って、一本わけてもらったでござる。晋助にと思って」
手に水仙の花を持っていた。すらりと長い指によく似合っていて、すこし笑ってしまった。
うぶな少年のこころはもう遠いけれど、礼を言って受け取った。このことは、きっとだれにも言わない。


おわり
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