タイトル


3 O'clock Secret Agent Men

「どうかしましたか。山崎さん」
山崎が台所の椅子に腰かけて、何やら浮かない顔をしている。
「沖田さんが俺のたいやき食べちまった」
頬をふくらませて言った。声までちょっとしょげていた。
「作ってあげましょうか、今から」
「えっ、たいやき作れるの」
「いえ、たいやきはできませんが、何かおやつを」
ちょうど三時ですからね。篠原はにこりとたおやかな顔で笑う。ほんのときおりしか見せない、青い夕暮れみたいな笑顔。
ああ、かなわないな、と思った。きっとなんでも、お見通しなんだろう。
山崎が落ちこんでいるのは、何も沖田におやつを取られたからじゃない。先週、ちょっと失敗をした。追っていた賭博屋の女主人に逃げられた。
土方は、もういい、とだけ言って、それきり怒りもしなかった。その後の調べで、ことはなんとかなったけれど、気持ちだけはどうにもならない。
篠原はてきぱき、小麦粉と膨らし粉をふるい、砂糖とマーガリンと卵を混ぜる。山崎は隣でとりとめのない話をした。このあたりで近頃見かける猫のこと、新しくできた料理屋のこと、川沿いの、いちょうの並木がきれいなこと。
「これ、何になるの」
「ドーナツです」
ちょっとびっくりした。舶来ものの菓子なんて買って食べるものだと思っていた。
「すごいな、なんで」
「なんででしょうね、いろいろ覚えてしまって」
監察などやっていると、生きてゆくのにおよそ必要のないことばかり身についてくる。篠原は琴を弾けるし、和歌も上手だ。山崎の三弦はあまりうまくはないけれど、弾くと必ず座敷のだれもが酔っぱらった。姉妹芸者として、ひところ置屋にいたこともある。もちろん調べのためだけれど、これがなかなか評判だった。
一度、駆け出しの絵師にどうしても描かせてくれとせがまれて、心底困ったことがある。
桔梗色のきものを着た篠原は、いつぞや美人画になって、錦絵を売る店に飾られていた。どんなひとが買ったのかはわからないが、あの美人は、どこにもいない。そのことを知るのは、たったふたり、ふたりしかいない。不思議なようなうれしいような、なんとも言えない気分だった。
作った生地を濡れ布巾に包んでしばらく外に出しておく。陽があたらないように、雨傘を広げてかぶせた。
「山崎さん、非番ですか」
「うん。うろうろしてたら掴まっちまうからね」
半分眠った秋の陽気はおだやかに、三時過ぎの台所を照らしている。座っていると、うとうと眠たくなった。篠原も、二度ほどあくびをしていた。
瞼がいよいよ開けられなくなるよりすこし前、篠原は勝手口をあけて、布巾の包みを取って戻った。つめたい風はもうすっかり、冬の匂いをさせている。いい頃合だとたしかめて、生地をまな板の上にのばす。
「湯のみ茶碗、取ってください」
「はいよ」
生地にかぱりと伏せて、まるに抜く。お銚子を逆さにして、まんなかのちいさいまるも抜いた。ちゃんとドーナツのかたちになった。
山崎は切れ端をひょいとつまんで口に入れる。ぼんやりした甘い味。
「おなか壊しますよ」
「へいき、へいき。丈夫にできてるもん。おいしい」
「知ってます」
てんぷら油をはった鍋に、円を浮かべる。ぱちぱち、油がはねる音。菜箸でひっくり返しながら、篠原はいつになく楽しげだった。
「ねえ、なんかいいことあったの」
「いいえ。でも、いいもんですね、こういうの」
並んで手を動かしていると、いつかの仕事を思い出す。あのときだけ山崎は、篠原をねえさんと呼んでいた。思い出すのか篠原は、姉のように、ふふ、と笑う。
「何してんの」
廊下から、原田がのぞいて声をかけた。
「ドーナツ作ってんですよ」
「女子か、おまえらは」
靴下のまま三和土に下りて、黒髪のふたつのあたまの真上からのぞいた。
「すげぇ、うまそう」
ドーナツはからりと揚がってきつね色。新聞紙を広げた上に並べてゆく。
わあ、とほんものの女の子みたいに、ため息の声をあげた。山崎も篠原も、原田まで。
「いっこ、ちょうだい」
まぶした砂糖が溶けて、きらきらしていた。
「かわりに、これやるから。頼むよう」
上着のポケットから、金色のちいさな包みを取り出して、ふたりの手のひらにのせる。
「チョコレート」
ここの隊士は何かというと、お菓子をくれる。子供や女の子にするみたいに、好きな子にするみたいに。
色恋はいつでもちょっぴり遠いから、そうやって帳尻を合わせているのかもしれなかった。
「いいですよ。どうぞ」
けれどもそこへ、仏頂面の声が突然、飛んできた。呼べばいつでも返事が返ると、信じて疑わない、土方の声。山崎、山崎、山崎。
「うろうろしないでも掴まっちまう」
山崎はうんざりした顔を作ったけれど、ほんのちょっとうれしそうなのを、篠原も原田も見て取った。それから、ぱたぱたと足音をはずませて、駆けて行った。
火のそばで熱いのか原田はおでこに汗をかいて、あたまをぴかぴかさせている。そろっと手をのばした。
「熱いですよ」
「わっ、あっつ!」
「はは、大丈夫ですか、隊長」
篠原の、からりとした笑いかたは、そっけないけれど、ちょっとよかった。隊長、なんて呼んでもらうのもいいな。あまり話したことはないが、案外いいやつなのかも知れん。原田は常から監察の篠原を、ちょっとこわそう、と思っていた。きりっとしてて、余計なことをすると叱られそうな気がするのだ。
「お茶いれますね」
「ああ、うん、どうもありがとう」
かしこまってる自分がおかしい。原田はますます、おでこに汗をかきながら、立ち働く篠原を見ていた。
「篠原くん、ここにいたのか。何をしているんだね」
廊下の上がり端に立って、伊東が声をかけた。
「すみません。お菓子をこしらえていましてね、先生もおひとついかがですか」
「そうか。それはいいね。ありがとう」
原田は眼鏡のすました顔を、ちらっと横目で盗み見た。ほら今、女子って思ったろ。なんだよなんだよ、うれしそうにしちゃってさ。
「すこし話があるんだ、今いいかな」
「はい。もちろんです」
篠原は、軽く会釈をして、台所を出て行った。
原田は大柄のからだを、すこしきゅうくつそうにして、ぽつんと立ち尽くしている。
「おう原田。何やってんでィ」
昼寝でもしていたのだろう、金茶の髪のそこかしこに寝癖をつけたまま、沖田が声をかけた。
「なあ、俺さ、偉くなりてぇ」
「なんだそりゃあ」
うん、いや、あんなふうに慕われてみてぇなと、思ってさ。
それは言えずに、にやりと笑ってみる。沖田は不思議な顔で、大きなあくびをひとつした。
窓の外、秋がやさしく笑いかけている。


おわり
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