雨の日デート


あめふり、ふたり

「やあ、晋助。参ろうか」
枯茶の紬の着流しに黒ちりめんの羽織で万斉は、かたり、とふすまを開ける。
今朝はきれいな朝やけだった。雨になる、と高杉が言い、もしも昼までに雨が降らなかったなら、迎えに来るから出掛けよう、と返した。
賭けには万斉が勝ったらしい。仕事を終わらせて昼時、うす曇りの空はなんとか持ちこたえてくれていた。
「なんだ、ほんとに来やがったのかい」
布団のなかでのできごとは、うそか夢だと思っている。うそでも夢でもなんでもいいと思っている。
高杉は読んでいた本を閉じて、面倒くさそうに言った。
そのわりに、きちんと準備は済ませてあった。

万斉がうるさく言うから、高杉は短いつめの素足に羊毛の足袋をはいて、二本歯の高下駄をひっかける。
からころ、と軽やかな音を鳴らして通りに出ると、煙草売りの長くのびた声が聞こえてきた。
「どこへ行こうか」
「どこでも」
瓦屋根のすこしの切れ目を三毛猫がひょい、と飛びこえる。高杉が目で追っていると、すぐ前の路地に降りて来てしばらくこちらを見つめて行ってしまった。
「何か、食べたいものとか、ほしいものとか、見てみたい場所とか、あるでござろう?」
「いいや?」
そっぽ向いたまま答える。ほとんど気のない返事になるのは、左側に安心があるからかもしれない。
「こら、よそ見ばかりしておらんで、晋助…」
半歩遅れた手を待って、ふれる数寸前のところ、高杉が追い越した。
「しるこでも食うか」
目先にある茶屋にすいすい歩いて行ってしまう。短いため息のあと、万斉は大きな歩幅で続いた。

一服終えて舗を出ると、大粒の雨。すでに水たまりがそこかしこにできている。
「ほら見ろ、雨になったじゃねぇか」 万斉は答えず、羽織を、ばさり、と脱いであたまからかぶる。
「でも、デートには間に合ったでござるよ」 上背のある男だからそのままこうもり傘のふうで、軒先をぱたぱたと滴る雨から、うまくかばってくれていた。
しまい込んでいた羽織の、かすかな白檀が雨をいっそう強く匂わせる。だから、抱きしめられている気分になる。
「行こう、晋助」
万斉は片手で低い肩を抱いて、雨のなかに飛び出した。ほんとうなら走りにくい、ぬかるんだ道なのだけれど、高杉の下駄はなめらかに水たまりをよけていく。
つめたい雨。だけど、かなしくはならない雨。

ぱしゃん、と水がはね上がる、着物の裾を濡らして重くなるけれど体は軽く、雨音のなかにとけそうなほど、清々しい。
もう長いこと、こんなふうに走っていない。
垣根を染める姫椿、葉を落としたもくれんの木々、しめった雨の濃い空気。
連なる表長屋の瓦が、黒々と濡れて影のようになっている。そのあいだの、細い道を駆けていく。

「晋助、」
今はもう閉めてしまったらしい喫茶店の屋根を見つけて逃げ込むと、はあ、はあ、と息をつく万斉が、早いでござるよ、と言った。
ずいぶん遠くまで来ている。
「濡れちまったな、せっかく…」
言いかけたことも忘れて、雨を拭う万斉にくちづけた。いい男だと思ってしまった、サングラスを取った隙。
なるほど、背の高い下駄は、こうするのにちょうどいい。濡れた足袋のなかで、指の先がむずむずしている。
つめたくなった万斉の指は、高杉の、ぺったり額に貼りついた髪をよけて、もう一度くちづけた。しずくを拭うような、ゆっくりしただった。

「せっかく晋助が出歩く気になったのに、もったいないでござるなあ」
鈍色の低い空をにらんで万斉はつぶやいた。心底残念そうに言うのだからおかしい。大きいなりして子供みたいなことを言う。
「まあいいさ」
眉のあいだにしわを寄せて、困った顔で笑った。いつも帰り際などにするのと同じ、あきらめ顔。
「なんだよ」
「いや……なんというか」
万斉はすこしかがんで言いにくそうにくちびるを開く。耳のそばにくっつけた鼻がつめたい。
「手をつないで歩きたかった、で、ござるよ」
「……ばか言ってんじゃねぇよ、俺ァお断りだ」
「後生一生の頼みでござる、晋助」
大げさだけれど、今までに何かを頼まれたことは、ないかもしれない。
「つめてぇよ」
ちょっと差し出した。大きな手に包まれる。雨に濡れてつめたく、指先がじんじんしびれている。
前の通りを足早に、ふたつ傘が通りすぎた。一歩近く寄り添って、たもとにつないだ手を隠した。
「はじめてでござるなあ」
出掛けたのも、手をつなぐのも、背伸びをしてくちづけたのも、はじめて。
たくさんありすぎるから、高杉は返事をしなかった。
もうじき雨も止むだろう。ずいぶん弱まって遠くの空は雲が晴れ、明るくなり始めている。


おわり
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