雨傘のぶんだけ遠くて、もどかしい


「やあ、どうかしたのかぃ」
斜め後ろから声をかけた。ふりむいて、こわばった頬が、泣き出しそうにふわっとゆるむ。前髪にとまった雨粒は髪飾りみたいにきらきらして、涙みたいに透明で、氷みたいにつめたそうだった。
「なんでィ、そんな顔して」
くちびるだけで、あっ、と言ったのがわかった。山崎は、雨がたくさん降っているのに傘を手に持ったまま、ささないで立ち尽くしている。
「沖田さん。お疲れさまです。見廻りですか」
「はやくささないと、濡れちまうよ」
沖田は柿渋色の唐紙の古い傘にいれてやり、うつむく黒髪を雨からかばった。降りだしたばかりの雨は、それでも、道のそこかしこに水たまりをつくっていた。薄明るい夕方を、雨の匂いが満たして、灰群青に塗りつぶしてゆく。
「傘、壊れちゃって」
眉をちょっと下げて、困り顔で笑う。耳にかけた髪の先から、つるりと水玉が滑り落ちた。
「貸してごらん」
さしてきた傘を持たせると、沖田はほんのすこしひらいた蛇の目の柄を握って、ぐっと力をこめた。どうやら閉じたまま、骨が折れているらしかった。
「ねえ、いいですよ。沖田さん。俺、そのへんで雨宿りして、帰りますから」
「待ってなせえ、すぐに、なおる」
縦にしたり斜めにしたり、ふってみたりもして、傘はようやくひらいたけれど、そのころにはずぼんの裾も、袖も背中も濡れていた。
淡い茶色の髪は湿って黒っぽく、得意げにさし出した沖田の幼さを、ちょっとだけ隠した。
「すみません。ありがとうございます」
でも、沖田さんが濡れちゃった。そう言って、さっきより困った顔で笑う山崎のきものの袖も、すっかり水につかったようだ。
「新しいの、買ってあげる。今度の休みに傘屋のぞいて、それから、どこか、どこかふたりで行きやしょう」
ことばの最後がすこし、照れくささでぼやけた。そっけないもの言いは、そんなの、ふりに決まっている。胸のなかが騒がしくって、だけど気付かれたくないから、沖田はけむる道の先を見つめたままで、放りだすみたいにさそった。
山崎はくちびるを、きゅっと結んでうなずいた。歩き出した沖田を追いかけて、水たまりをばしゃりと踏む。
おんぼろ傘をひょいをゆらすと、こつん、隣を歩く番傘にぶつかった。ちらり目が合って、それからすぐに、そらしてしまった。ひとつの傘にはいれないくらい、好きだった。好き合っていた。
だから、道行くひとに気付かれないように、だれにも知られないように、別れわかれの傘にはいって、帰るしかなかった。
「いいんですか。見廻りは」
「うん。雨だから、今日ははやめに店じまいでさァ」
ちいさく笑い声をこぼす。もうすこし一緒にいたかった。いつでもうまく近くにゆけず、もうすこし、そのすこしがもどかしい。
「ねえ、ねえ沖田さん。よりみち、しませんか。この先、ちょっと行ったところにね、甘味屋がありますよ」
おなじところへ帰るにしても、このまま帰ってしまうのは、なんとなく寂しかった。いつもは言い出せないわがままを、雨の今日だけとくべつに、ゆるしてもらいたかった。
「ああ、でも、濡れちまったし、風邪ひくかな。帰ったほうがいいですよね。すみません」
「なんだそりゃあ。行くかやめるか、どっちかにしなせェ」
山崎は考えこんで、こたえない。雨の音がまたすこし強くなった。
「風邪ひいたら、看病してくれんのかィ」
「えっ……はい、それは、もちろん」
「ははっ、そいつァいいや。一石二鳥でさァ」
沖田は晴れた日の江戸の空みたいにからりと言って、いたずら顔で笑った。長雨のうちあと何度、こんな幸運があるだろうかと、胸のなかで数えている。


雨傘

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