連弾
「晋助、ほら、風邪をひくでござる」
ふり向きも、返事もしないで晋助は、雨の匂いを吸いこんだ。二階家のひさしをつたって雨粒が、ぽたりぽたりと落ちている。
万斉はやってくるなり小言をいって、夜着を背中に着せ掛けた。窓の向こう、眺める遠くの山々は赤やこがねにそまっている。にじむ秋色は、晴れた日に見るよりも、やさしげであたたかい。
「久しぶりだな。顔、忘れちまうとこだったよ」
膝にのせた三味線は、黙りこくって音もたてない。眠たげに糸をゆるめて、濡れた町を見下ろしている。
往来を行くひとはなく、砂色の路地にいくつも、ちいさな川ができていた。町は静か。さらさらと、潮騒のささやくような雨音が、あたりをやわらかく包んでいる。
万斉が外套の湿りをはらっていると、肩の先から、三味線の撥のかたちの葉がはらり、落ちて畳に散った。
そういう唄があったな、と晋助は思った。帰るあなたの背中に隠れ、ひとひら出てゆく遊廓(さと)の秋。
もしも俺が銀杏なら、恋しい背中に貼りつくなんて、健気な真似はしてやれねえな。
「寒いんなら、火おこしてくれ。火鉢そのへんに出してあるだろう」
糸を押さえて、ひとつ鳴らした。
「切られ割られて、焚き木になって」
ばらん、ばらん。
「炎に包んで連れてゆく」
雨の日の、しめっぽさがちょうどいい。晋助は、くすり、笑って振り返った。
「くるたびに風邪引く風邪引くってさ、おまえの言うとおり風邪ひいてりゃあ、それこそ身がもたねぇよ」
風がつめたくなる頃はいつでもそうだ。寒かろうと手をこすってくれたり、腕のなかにいれてくれたり、いつもさんざん世話をやかれる。うっとうしくてかなわない。嫌でないから、たちがわるい。
外套の内側の心地を、かたい髪のふれる、えりあしの熱を、去年の冬を、とうとう忘れ去れないまま、秋になってしまった。
「またそのような減らず口を。用心するに越したことはないでござるよ」
背中を抱きこむようにして、万斉はやわらかな黒髪のつむじにあごをのせた。寸法をきっちり計ってあつらえたように、手足の長さがちょうどよかった。
「こうしてると、あったかいでござるな」
肌の外側、ほんの指ひとつぶん向こうは、雨ふりのつめたい空気。
「晋助、手伝ってくれぬか。明日までの仕事が、どうもいけない」
「へえ、めずらしいこともあるもんだ」
骨細の背中ごと、万斉は三味線を抱えた。ちょうど二人羽織の格好になって、弦の具合をたしかめる。
糸のふるえはいつもより、弾むような、なまめくような、いい按配。からだがじりり、としびれてくる。
楽譜紙をかさりと広げて、したためた音をたどった。最後のひと節がなかなか決まらず、困っていた。
「来春の曲でござるゆえ、にぎやかにと言われているが、これがなかなか」
なじんだ音は心地よく、雨音に絡まって、指先を滑る。
万斉はしばらくまじめに弾いていた。作りかけの唄の先を、思いつくままつなげてみる。そのうち手もとなど、どうでもよくなって、ひとつふたつ、音をはずした。
気まぐれに、晋助は糸を押さえた。ほんのすこし、色っぽい音になる。弦をたわめてさそうように、きゅうと鳴らしてささやいた。
「弾いてやるから、おまえ続き、考えろ」
「かたじけない」
晋助は書きとめてあるとおり、しばらく調子を追っていたけれど、すこしもしないうちに面倒になってきて、思いつきの端唄を弾いた。
棹をはしって行ったりきたりしている指。ふれたい、絡めたい、つなぎたい。万斉は曲の続きそっちのけで、そればかり考えている。
くったり胸を預けて、あくびをした。あったかくなって、急に眠たい。
「どうした、寝てねえのかい」
「昨夜、三曲仕上げた。へとへとでござる」
「へえ、結構なことじゃねえか」
年の瀬が近づくと、万斉はいそがしそうにして、とんと顔を見せなくなる。
次の月で今年も終いと思えば、何をしているでもない晋助も、なんとなく気ぜわしい。
「万斉、重てえよ」
振り向くと、ずり落ちてきてあたまが、ごつんと肩にのった。
「おいおい、こんなとこで寝るなよ。風邪引くぜ」
それもいいかな、と思う。外は雨が降っている。しばらく休んで行けばいい。
「……仕方ねえやつだな」
動けないからしょうがない。晋助は三味線を横に下ろすと、手をのばして窓の戸を閉めた。
雨が止んだら蕎麦でも食いに出掛けようか。それともこのまま、夜がくるまでこうしてようか。
格子硝子の向こうには眠ったような雨の昼。
気持ちよさそうな寝息が、耳にあたってくすぐったい。
おわり
もどる
|