Rosie
雨が降っている。もうずっと降っている。煙った町は、右上がすこし欠けている。
昨夜の捕り物、やたらとはやい二の太刀をかわしたところに割れた銚子が飛んできて、右の瞼をすこし切った。厚ぼったく腫れているから、曇天のぼやけた町がよけいにぼやけて、にじんで見える。まばたきのたびに、鈍く痛むのもわずらわしい。
しごとはまったくはかどらないで、朝開けたひと箱を夕方にはぜんぶ灰にしてしまった。気散じに散歩でもしようかと屯所を出れば雨に降られ、仕方がないからたばこ屋の軒を借りて一服している。
いらいらしどおしで、ああ、わるいことをしちまった。いまさら反省をしても遅すぎるが、たしかに、よくなかったと思う。
急かして仕上げさせた報告書、字が汚いと言ってつき返した。寝ないで書いたのだろうに。すこしなおせば済むことだった。こすれた墨のあとくらい、なんでもないのに。
あれは、ほとんど八つ当たりだったのだ。すまないことをした。
土方は煙突みたいな恰好の灰皿でたばこを消し、ぽろぽろと褪せた橙の廂から垂れる雨にふれた。ほのあたたかく、やわらかい雨。さっさと帰ってあたまを下げて、しごとを片付けてしまえばよいものを、こんなところでまだ、ぐずぐずしている。意気地がない。それを傷のせいにするから、なんにもならない。そんなこと、百も二百も承知のうえで、ぐずぐずしているのだ。
雨は止みそうになかった。もう一本、銜えて火をつけた。通りを歩いてきた傘が、ぱたり、目の前で止まる。しばらくは見ないふりをした。ばつがわるかった。
「副長、おさんぽですか」
「ああ、いや、たばこ」
声をかけられてしまったら、もうそれはこたえるよりほかにない。だけどうまく取り繕えもしないで、土方は、ぼろぼろと歯切れわるく返した。
白くふわんと濁った煙が、雨だれの水っぽさにとける。
「なんだ、言ってくれたらいいのに」
山崎は蛇の目を肩にかけ、ちょっと傾けて、くるりとまわした。
「怒ってますか。やっぱり」
しょげた声だった。すぐにわかる。何か言ってやるでもなく、どうすることもないのに土方は、声の調子だけいくつもおぼえている。はしゃぐ声も、ふるえる声も、何かいっしょうけんめい話す声も、気の進まないしごとの返事も、はなうたも。おぼえて、好きになった。どれもこれも、ひとつ残らず。
ちがうよと言いかけたところで、先をこされた。
「報告書、ちゃんと、書きなおしました。申し訳ありませんでした。だから、帰りましょう」
「そうか、おまえ、俺を迎えにきたんだな」
怒って出て行ったと思ったのだろう。ばかだなあ。ちがうのにな。
「すまなかった。あれは、怒ったんじゃねえ。おまえに当たっちまっただけだ」
「いいえ、いいえ。そうですか、よかった」
湿った髪でほろほろと笑う。そういうときの山崎は、ふれられないくらい色っぽい。それなのに、怒ってなくてよかった、と叱られた子供みたいなことを話して、笑った。
「いつも、きれいに書こうと思うんですけどね、昨夜はもう眠くって。でも今度のは、うまくいきました。帰ったら読んでくださいね」
傘の柄をぎゅうと握りしめすぎて、指のふしが白くなっている。
「傘、いれてくれよ」
噛みあわないこの話をしまいにして、土方は隣にすいと滑りこんだ。道のそこかしこに水たまりができている。静かな、雨の音だけが町じゅうをひたしている、静かな夕暮れだった。
知ってるよ、とこころに思う。山崎の報告書はいつでもきれいに書かれてある。密偵のとき、ひとの手を伝って送り届けてくる文は、とりわけ丁寧だった。それを一度だけ、褒めたことがある。
よくおぼえてる。そうさ、山崎は、恋文のつもりだと言ったのだ。たしかに冗談のふうではなく、とてもまじめに。会えないひとに書くから恋文だと、そんなふうなことも話した。かなわないから恋なのだと、山崎はあのとき、言ったのではなかったか。
「お誕生日の夜だったのに、災難でしたね。痛みますか」
「うん、いいや、平気だ」
「でも、いいことがありますよ。そのぶん、きっと」
けがなんて、すこしもめずらしくない。なのに励ますみたいに言う。いつも、けがをして帰ってくると、痛かったですね、でもきっと、そのぶんいいことがありますよ。そんなふうに言って励まそうとする。よくよく考えればそれは、士道不覚悟、ということになりかねないが、でもそんなこと持ち出しようがないくらい、おおらかに励まして、薬を塗り、布をあててくれる。治ってゆくような、むずがゆいような、かさぶたの気持ちになる。
「そうか。そうかな」
「ええ、きっと」
土方はまた押し黙る。今日はどうしたことか、考えがすこしもまとまらない。雨に濡れたみたいに水をふくんで、胸の底、静かに横たわるようだ。
きゅうにむかしのことを思い出したり、懐かしんだり考えこんだり。またひとつ歳をとったからに違いない。ああ、そうに違いない。
「聞いていますか、副長」
ひとつの傘におさまって、山崎は途切れつつも、さっきからあれこれ話をしている。原田が風邪をひいて騒いでいるらしいこと。神山がかめを飼いはじめたこと。朝顔のつるがだいぶと伸びて、道場の壁にまで届きそうなこと。
「そこ、水たまりですよ。よけてください」
「それくらい見える」
ちいさな声で謝り、山崎はしばらく黙りこむ。雨の音が、肩のすこし外側を流れすぎてゆく。
「あっ、副長、足もとに段があります」
「いちいちうるせえ」
「ごめんなさい」
ちょうどそのとき、擦り減った石段の、ちょっと尖ったところを踏んでよろめいた。暗くなってくると、近さ遠さがわからない。
「ばか、言えよ。いまのは」
「すみません」
どうしたって怒られてしまう。ちょっとそれは、理不尽だなあ、と山崎は思っている。ずっと、いままでも、ずっと思っていた。でも、いい。そんなのは、すこしも嫌じゃない。
「じゃあ、手、つないであげましょうか」
「ばかやろう。できるかよ」
「照れないでください。暗いですし、ね、だれも見やしない」
すぐにうれしくなって、こうして一緒に歩いているというだけで、もうすっかりうれしくて、こんなに気持ちがはしゃいでしまう。気づいて、叱ってくれてもいい。
「おまえなあ」
「好きですよ」
ことばの最後がわずかにふるえた。雨の匂いのせいだ。
「昨夜は、びっくりしました。たくさん血が出て、ほんとうにびっくりしました」
今度はもっとふるえた。でも、立ち止まったりはしない。
なんと言ってよいものか、土方にはさっぱり見当もつかない。ぎゅうと眉をしかめるから、眉間のしわがまた深くなる。こわい顔をしている。
「土方さん」
あたたかくもつめたくもない声音で、山崎は呼び掛ける。ぽろ、とくちびるからことばの粒が落ちるような、そういう声だった。
「そこに、帽子屋の角のところにね、ばらが咲いていますよ」
なんだ、いきなり、と土方は戸惑うけれど、もう慣れっこになっている。あちこちへふらふらする山崎の話は、おなじ道をたどらない。
「きれいですよ」
「そうだな」
うつむいて、山崎がちいさく吹きだした。
「ねえ、ちゃんと、見えてますか」
「……いいや、暗くてわからねえ」
ふうっと、息をこぼして笑う。泣き出すときみたいな、せつない息遣い。
「帰ったら、薬つけてあげますね」
「ああ、頼む」
今日の帰りはふたりでも、明日はもう、ふたりではないかもしれない。そこからずっと、ひとりかもしれない。そのことを忘れたわけではない。ただ、ただ、この近さを、傘の柄をはさんで歩く今日の帰り道を、何よりいとしいと思った。だいじに思った。
砂利を踏む下駄と、革靴のかかとの音。雨が町を打つ音。薄紅色の、雨の日のばら。
おわり
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