沖田くんのお話です


子供と唄と帰り道

月がきれいすぎて泣いちまいそうだったけれど、それでもあかるいと泣けない。
いいや、あかるいせいじゃあない、闇の中でだってもう今更泣けやしない。大人はかなしい。

それでも。
俺だけが子供、子供のままだ。
ふたりは先を行く、いつでも俺の先を。うしろから見ているだけだった。
背丈を越せたら並べるだろうか、強くなったら並べるだろうか。
指にまめができて、それが潰れて、くりかえして毎日が過ぎた。何年も過ぎた。俺はどんどん強くなった。試合でなら誰にも負けなくなった。 なのに、子供。

近藤さんと土方さんは、会議に駆り出されて今朝がた屯所を出た。数日帰らない、と言っていた。
このところ、過激派の攘夷浪士たちに目立った動きはない。それがかえってあやしい。何やら松平のとっつぁんは極秘の情報を仕入れているらしかった。
十日ほど山崎たち監察方は入れ替わりで仕事に出ていた。つかまえて話を聞くと、知らない聞いていない、の一点張りだ。らちがあかねぇ。
山崎なんか申し訳なさそうな顔を隠しきれないで、そそくさ屯所を出て行った。それが昨日。
隊長格にまで話が出回るころには、もうとっくに出方は決まっている。 ふたりが帰ったら今度はすぐ、俺や原田さんたちが呼びつけられるんだろう。
組織として、それでいいと思う。
ただ、腹が立つのは、おまえには関係ねぇ、って顔した土方さん。 ぴしっとした隊服の背中、研いで粉を打った刀。
留守番頼むぞ、なんて、ごつごつした手で俺のあたまを撫でる近藤さん。 磨いた靴と、大きな歩幅。

俺ァどうしたらいいんだろうねィ、こんなとこまで来ちまって、今更子供扱いなんてひどいったらないぜ。 わかってる、はぶられて拗ねてるところが、子供だって。わかってる。
あたまではわかってるんだ。でもさァ、この重くてざらざらした気持ち、どこに持ってったらいいんだろうねィ。 屈強な肩にあこがれた。自分のものとは違う、骨張ったてのひらにも。
どうしたってなれねぇんだ。それもわかってる。
俺の、細い指が嫌いだ。さも弱そうなもろそうな、昔のまんまの指が嫌いだ。
なんとなく、屯所を出た。用があったわけでなく、夕飯のあと、ひとりで。 酒を呑みに出かけるにも、たいした店は知らないし、どこもみんなよそよそしくって、結局河原までぶらぶら歩いてやってきた。
人はなく、月だけが煌々とあかるい。さわぐ水面に幾筋も白いひかりを揺らしている。
草のにおいに昔を思った。

わらべ唄をぼそぼそ唄う。 黙ってただ歩くには、あかるすぎるし、静かすぎる。持て余してしまっていた。 なんとなく浮かんだのは、夕焼けをうたった唄で、近藤さんがよくうたっていたものだ。育ったまちを思い出すように、今でも時々鼻歌みたいにうたっている。
ささくれた気分は思った以上になぐさめられて、帰ってやらない家を思った。 それでも昔に下駄で歩いた道には、洒落た革靴でかかと鳴らして歩いてみたって、もう二度と戻れない。

ずいぶん昔。十かそこらの幼い自分。 彼岸花の咲く田舎道、古い道場、牛舎に隠れて泣いたこと。
他流試合に加えてもらえなかった俺は、竹刀一本、握りしめて、道場を飛び出した。 たいして遠くへも行けず、心細くなってしまって見つけてくれるのを待ってた。 あたりがすっかり暗くなる頃まで、まるくなってじっとしてた。誰も来てくれないんじゃねぇかって思ったら、消えちまいそうだった。
弱い指がかたかた震えた、秋のはじめの頃だった。

声がして顔を上げたら火を入れた行燈がぼうっと照った。 近藤さんは心底ほっとした顔で、そうご、とからからの声を出して呼んでくれた。打たれるよりずっと辛かった。
俺のなけなしの最後の意地。しぶしぶの体で屋敷に帰った。その時に近藤さんが唄ってくれた夕焼けの唄。 日も落ち切った時間に、その唄は似合わなくって、だけど行燈のあかりが夕陽のように照っていたっけなあ。
恥ずかしげもなくばかみたいに大声の、へったくそであったかい唄。つないだ手。あかい灯と大きな肩を覚えてる。
井戸端を歩き回っていた土方さんが俺たちを見つけて駆け寄った。鬼のような顔だった。試合でならこわいなんて思ったことなかったけどさ、あの時ばかりはこわかった。 見限られたような気がしたからだ。そういう気持ちの名前を俺はまだ知らなかったけれど、とにかくこわかった。
あ、と思った瞬間、垣根まで吹っ飛ばされていて、あわてて割って入った近藤さんが二発目のこぶしからかばってくれた。 糸が切れるみたいにして、ぱつん、と涙が落ちた。
俺はふたりに渾身の力でしがみついて泣いた。わあわあ泣いた。あとからあとから出てくる水は、井戸をいっぱいにしても足りないくらいだったと思う。 後にも先にも家出はそれ一度きり。あんなに泣いたのも一度きり。
もうどうやって泣いたのかも忘れちまった。泣こうにも声が出ない。
ああ、もうあの日に、帰れない。

いつまでたっても弟で、剣は強くなったって、あのひとたちには弟で。
それなら仕方ないやね。
今回だけは俺が折れてやらなくっちゃ、もうこのあたりに牛舎なんてないからさ。 賢いおとうとを持って幸せだと思いやがれってんだ。

どこへも行けない、俺たちは。
帰ろう帰ろう、江戸の町。
眠って起きて、明日もしごと。

でたらめな唄をつけて、屯所の門をくぐっていた。

おわり
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