恋を始めよう
きちんと手順を踏んだことなんて、ただの一度もなかった。こんなふうに焦がれたことも、泣けるほど恋しくなることも、会いたいと願いながら眠りを探すことも。
万斉は仕事用に借りている機材だらけの一室で譜面と資料を押しのけて、ごろり、床に寝転んだ。
恋の唄は得意だった。いつだって思うさま音にできた。それなのに見失ってしまった。恋を、いいや、音楽を。
かたわらの三味線をほんの指先で弾く。ばららん、と響く。ぎざぎざの音だった。傷ついているような、怒っているような、どうしようもないぎざぎざの音。
万斉はその手で両目を覆って、しばらく息を止めていた。体のなかの音をすこしでも静かにしたかった。
会いたい。
なりゆきというには熱すぎた。計算ずくというには急ぎすぎた。どうしようもなかった。好きだった。
色男のふりをするには経験が浅い。まあ、それを差し引いたとしても、あれは恰好悪すぎる。一本勝負はどちらかといえば苦手だ。
抱かせてくれぬか、と、万斉は言った。高杉は眠たそうな目で笑った。それから、白い指で帯を解いた。先月の晩はもう遠い。
ことのあと、料理屋の座敷でそのまま眠ってしまった万斉は、明け方ひとりで目を覚ました。恋は叶ったのではなかった。ひと晩だけのことだった。
それきり連絡はない。文は届けられないし、それ以外の方法は知らない。思えば、何も知らなかった。
はじめから、見えてなどいなかったのだろう。音楽を? いいや、恋を。
万斉はのそり、と起き上り、卓の上に散らかった譜面をかき集める。言葉がぎっしり詰まった紙が一枚、ふいに目にとまった。歳若い女の子が書いた恋の唄だった。
好きになって、思いを告げて、手をつないで、くちづけをして、さよならになって、思い出になる。そういう恋の唄だった。
きれいなわたしでいたい、さよならを言うときはね、はじめてくちづけた夜を、思い出していつか。
化粧品の宣伝に使われる予定の、春から売り出すくちべにの曲。
万斉は、あの晩の続きがどうしてもほしかった。
思い出すには苦しすぎることばかりを思い出して、行き場も帰るところも閉め出して、ぽつぽつと灰色の道を歩くあのひとを手に入れたかった。
手順は違ったけれど、次に会ったときは、お付き合いを申し込もうか。そう考えたらひとりで笑ってしまった。あまりに遠くて笑ってしまった。
会いたい。
明日、思い出してほしい。はじめてくちづけた夜を。それから、できれば恋しくなって、会いたいと思ってほしい。すべての夜に。
万斉は三味線をとって、ばらん、と弾いた。ずいぶんと照れくさい音がした。
恋の唄にはちょうどいい、と思っている。とりわけ、今年の春の新色にはぴったりだ。
そうだ、次の晩から始めよう。手順を踏んで手をつないで、ああそれなら、お付き合いを申し込む練習をしておかなければ。
あきれられても笑われても、たぶん、斬られることはなかろう。彼は酔狂が好きだ。
冗談のつもりでもいい。そのうち本物にしてみせる。知らないことはたくさんある。でもそれはこれからでござる。
さあ、恋を始めよう。
おわり
もどる
|