トースト
「晋助、晋助、おはよう」
起こさないでくれ。朝はきらいだ。まぶしくて目がちかちかするし、あたまは痛いし、なにもかも億劫で面倒で、うんざりだ。朝なんてこの世から消えてなくなればいい。
だけど、そういうわけにもいかないことを、思い出してしまった。昨夜、布団のなかでもつれながら約束したのだ。
朝食を一緒に食べよう。かしこまってそんなことを言うからおかしくて、小指を絡ませた。
「おはよう。晋助、寝ぐせがひどいな」
大きな手があたまをすっぽり包む。また眠くなった。布団が恋しい。まるまった掛布の、あのやわらかいあたたかいところへ帰りたい。
「はやく顔洗っておいで。朝食にしよう」
でも、万斉は今日からしばらく帰ってこないのだ。しかたがないから、のろのろ置き出して顔を洗いにゆく。ひやりとつめたいタイルの上でつまさきをまるめる。朝なんかこなければいいのに。ずっと夜だけならいいのに。何度だって思う。
部屋はあかるく、まぶしいくらい白っぽくて、ジェルでかためた万斉の髪とおなじかたちの影が、冷蔵庫のとびらに映ってゆれていた。
万斉はトーストにバターをぬり、かさり、皿に置いた。贔屓のパン屋に通って集めた点数で、もらった白いまるい皿。熱くて濃いコーヒーと四角いチーズ。
何もかも欠けのない、不安のない、傷のない、完璧さに満ちた朝。だから苦手だ。きらいだ。
バターがとけて、しみこむ。甘い、しょっぱい、こうばしい匂い。はちみつ色の、幸福ぶったそういう朝が、だいっきらいだ。
「おみやげは、何がいい」
「いらない」
「つれないな。気に入りそうなものがあったら、買ってこよう」
どういうわけで音楽家だかプロデューサーだかに、そんなに新聞が必要なのかは知らないが、明日の朝からしばらく、三社も取ってる新聞は、まったくの無駄になる。スイッチを押すだけだというエスプレッソマシーンだって俺は持てあまして、駅前までコーヒーを買いにゆくだろう。手もとにある仕事のほかは、きっと何もしない。万斉のコロンの匂いにうんざりしながら、それでもシーツはそのままだ。洗剤の置き場所を知らないから。眠れなくても、夜が通りすぎるのをじっとやり過ごして、平気なふりをするだろう。きっと十日ももたない。
それをぜんぶ知ってるくせに、朝食をつくって、わざわざトーストにバターをぬってくれる。なんてことだ。なんてひどい。あんまりだ。
「晋助。そろそろ、かな。出掛けてくる」
「ああ、気つけてな」
玄関まで見送ってやった。大きな革の黒い鞄を提げて、万斉は一度だけ振り向いた。サングラスの奥で、目を細めたのがわかった。ふれたそうに右手を持ち上げて、迷って、その手をふらふらと振る。
大きな手だな、と思う。
「行ってきます」
ばたん、とドアが閉まり、アパートメントの階段を降りてゆく革靴の音が遠くなる。
「せいせいする」
どうせうそくさいだろうな、と思いながら、それでも声にしてなぞった。思ったとおり、思ったよりも、うそくさかった。
テーブルには齧りかけのトースト。バターがしみこんで、ちょっとしんなりしている。黙って椅子に腰かけて、テーブルに頬杖をつく。窓からななめに射す陽のなかで、埃がきらきらゆれる。半分のオレンジが、ぽつんと皿にのっている。
ああ、こうして何度だって俺は、ほんのさっきまで幸福だったことを、思い知るのだ。
おわり
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