美しく澄んだ瞳は


トランスペアレント

町はずれの寂しい平屋で重ねる逢瀬。そとは夜、いつも夜。ふたりに昼は必要なかった。
あかい火が薄紙ごしにきらめいた。晋助の絹の着物の蝶々が、あかりに羽を震わせた。
万斉は、空の杯に酒を注いで途切れた会話を弄んだ。透明の酒は光を映しこみながら、かすかに湯気をたてている。
ちらり、盗み見るのは何度目か。気だるさを滲ませた肩、滑らかなうなじにかかる細い髪。眠たげに顎を持ち上げて、すい、と杯を干すしぐさ。
炎にかざした紙が端から焦げるように、万斉の静かなこころはよろめいている。すべてを暴いてみたい、と思った。
晋助は、不確かな先のことをとりとめもなく口にしていた。ほとんど意味はこもっていない。言葉遊びの最後に、黒い瞳がまっすぐ目の前の男を射抜いた。何か、意味があるとすれば、それだけがたしかだった。

「なあ、おまえはふたつ持っているのに、俺はひとつじゃ不公平だ。そう思わねえかい」
「……謎かけでござるか」
さし向いに座ったからだをずい、と進めて晋助は手を差し伸べた。白い腕がゆっくり視界に横たわる。
「そのうえ、隠したまんまは、いけねえよ」
サングラスが奪われて、かしゃん、音とともに畳に落ちた。
「隠しているのではござらん。これがないと使いものにならぬゆえ」
切れ長の、鋭い眼は輪郭をとらえきれないで、ぼんやり滲む頬を見つめた。今では慣れてしまったけれど、光の分だけかたちを失う。昼はほとんど白いばかりで夜は線画が世界のすべて。
それでも苦労はしなかった。すこしくらいぼやけているほうが、具合がいいと思っていた。
美しい獣に出会うまでは、何かを熱心に見つめたこともなかったかもしれない。

「おまえばかりが見えてるみてェで、俺はそれが気に食わない」
ふれる近さで囁いたわがままは、かすれて熱っぽく、すこし湿りを帯びている。
晋助はひやりとつめたい手のひらで万斉の頬を撫でた。うすい肌の下、骨の場所を確かめるみたいに、瞼を、鼻筋をたどってゆく。
「何も、見えてはござらんよ。今もぼやけて暗いだけだ」
「うそをつくなよ」
見透かされる思いがする。つめたい、静かな瞳は隠したこころも、ふれずにしまった遠い記憶も、ひそやかな甘い傷さえ、あっさり見透かしてしまうだろう。
「しかし見えずとも、よくわかる。晋助のことならなんでも。それほどに主がこの胸を占めている」
「……その口、縫ってやりてえなァ。憎たらしい」
合わせたくちびるは、ほんのすこし笑っていた。万斉は近すぎる光を睫毛の隙間から覗いた。欲望は透明だった。熱く、どろりと濁ったものならば利かない眼でも見つけられただろうに、清らかなほど澄んでいるから、これでは探しようもない。
絹の糸に縫いとめられて、静かにしずかに息を吐く。ヘッドフォンが放られて硬い音をたてると同時に、やわらかさが肌にふれた。
「きれいな耳だ。隠しておくにはもったいねぇ」
ぬるいくちびるを押し当てたまま、言葉を注ぐ。抱き返す力がぐっと強まる。 「晋助」
濃密な重力を滑りながら、万斉の背中は古びた畳にくずおれた。覆いかぶさる晋助の黒い瞳にゆれる炎が映りこむ。ひとりの男とあかい火が、混ざり合って燃えている。
それがすべてなら、と、万斉は思った。それがすべてなら、どんなにいいか。
暴いて壊してしまおうなどとは考えたくもないのだけれど、透明の光をたたえる瞳を見たなら、願わずにはいられなくなった。苦しいばかりの、それでも手放せない思い。はっきりとかたちがわかるのに、どうすることもできなかった。だれも過去には、ふれられない。
晋助、とふたたび、深い声が名を呼んだ。言葉はほかに、ひとつもなかった。逢瀬のたびに、万斉はにがい朝を迎えていた。届かないことなど、すでに思い知っている。
腕のなかに、不埒なからだだけが投げ捨てられた恰好で置き去りになっている。名前をどれほど叫んでも、声は届きようがない。それでも憎めやしなかった。万斉はかわりに、自らの強欲さを憎んだ。
求めることと奪うことは、いったい何が違うのだろう、と考えている。苦しみだけが生きる頼りの男から、何を奪いたいのだろう。
できるなら、もっと静かに愛したかった。残響に震えるからだにより添って、温もりだけ分けてやりたかった。
傷の傷みを追い出すことは叶うまい。それならせめてこの夜のあいだは、映しておいてほしい。そうすれば、うまく逃がしてあげられる。ほんの、ひとときだけれども。

「まどろっこしいのはやめてくれ。なあ、はやく、抱けよ」
欲望は酒のしずくのようだった。火がついたなら一瞬で燃え上がる。
「晋助、気の済むまで見ていればいい。どんなに主を愛しているか、そのからだに示してやろう」
美しく透明なふたつの魂は灰のかけらも残さず燃えて、夜明けとともに消えるだろう。そうして、この世から姿を消して、世界の果てで愛し合いたい。

おわり
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