蜜柑と汽車と
見廻りの帰り、土方はとうとう何も思いつかずに、ひとり道を歩いている。二月のはじめにしては、あたたかい夕方だった。
折り返すところで、連れて出た一番隊の新参者を先に戻らせた。助かった、というのが顔に出ていて可笑しい。相当嫌われてる。まあ、そうだろうな。
町のまんなか、今日は知る顔をだれも見かけない。
しまいかけの八百屋の店先で、ちいさな夕陽がころころならんでいた。ああ、あいつは蜜柑が好きだったな、と思う。こんなものでも、よろこぶだろうか。
ひと盛り、買ってゆくことにした。ざら紙に包んでもらい、またひとり、ぶらぶら歩いた。
川に架かった鉄橋を横目に見ながら、戻ってからの仕事をあれこれ考える。
かぶき町の駅舎の角に、よく知るうしろ姿を見つけた。緑の襟巻は、年末に贈ったものだ。
この道を通るだろうことは知っていたし、そもそも松平への遣いものを頼んだのは土方だった。
会いたいと思っていたわけではない。石畳の、黒いところだけを選って歩くみたいなものだろうか。わけもない、子供じみた願掛け。
「山崎」
あっ、という顔になり、どうしたわけか、かしこまって会釈をした。
「びっくりしました。見廻り、ご苦労さまです」
「付き合え」
土方はなんでもないふうに駅舎の階段を上がり、どんどん入って行く。わざわざ振り返ってたしかめたりはしない。きちんとついてくることを知っている。たとえばここが、ほんとうに地の果てでも。
「副長、どこへ」
「おまえ、これ持ってちょっと待ってろ」
蜜柑の袋を押しつけた。山崎は仕方なく、煉瓦の柱に背中をくっつけて待っていた。帽子をかぶった婦人が、重たげな鞄を提げ、足早にとおり過ぎる。
「行くぞ」
土方は戻るなり、また混み合うほうへ歩き出した。見失わないように、山崎はついて行くのがやっとだ。切符を渡され、階段をのぼり、ほとんど駆けて、笛と同時に飛び乗った。汽車はごとごとゆれて、走り出す。
くだりの鈍行、ぽつぽつと、ひとのあたまが見えるくらいで、すいている。二人掛けの窓側に、向かい合って座った。
「どこへ行くんですか」
「さあな」
癇癪みたいに起こした気まぐれが急に照れくさくなって、土方は目も合わせない。だから山崎も、それ以上は何も言わないで、過ぎゆく江戸の町並みをながめていた。
立派な瓦屋根の連なる武家屋敷は、こうして見ると、さかなみたいだ。夕陽の色の、瓦のうろこがきらきら光る。
「蜜柑、食うか」
えっ、と聞き返したところを、土方は目配せで包みを示した。あわててなかをあける。
「よかった。さっき走ったから、つぶれてないかと」
蜜柑はもう時期もおしまいだからか、ぼんやりと甘かった。ふたりの向かい合う膝のあいだにだけ、初夏のようなさわやかな香りが満ちた。
窓のずっと遠く、屋根をいくつもいくつも越えた先に、海が見える。
土方は、窓のふちにあたまをもたせて、目を閉じた。ふるさとに帰る汽車ではないけれど、郷愁じみた気持ちがたしかに、胸にある。
このまま、ふたりで旅をしようか。見知らぬ町を歩こうか。おまえのさとまで、行ってみるのもわるくない。一度は訪ねたいと思っていたところだ。
しかし、そのどれも、言葉にはできないことを知っている。
しばらくして、そっけないちいさな駅舎が見えた。汽車はゆるやかに、すいこまれてゆく。
おりると、湿った風が強く吹いた。旅は、たったのひと駅だけだった。夕陽の名残に照り映えて、見送る汽車は、蜜柑色。
「副長、歩いて帰りましょう」
別れを口にするような、妙にせつない声だった。
「ああ、いいよ」
それでも、いつもよりすこし長めの帰り道、山崎は、はじめてですね、と笑った。
「今度はもっと、遠くへ行こうな」
蜜柑の包みを抱えて、しみるような声で、言った。
おわり
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