Please, Slowly, Please
雪が降るかもしれない。夕方のニュースではたしかにそう言っていた。おととい商店街で買った電気ストーヴは、ちいさいながらもがんばっている。クラブハウスは住むようにはつくられていないらしく、このところ夜はいちだんと冷える。
椿はマグカップを手の中に包むようにして持って、ふう、と息を吹きかけた。やわらかい線になって消える湯気を目で追いかける。すぐにまた別のあたらしい湯気がうまれて、ふわふわと頬をあたためた。椿はこどもみたいに鼻先を赤くして、でも髪はまだつめたい外の匂いをまとっている。
夕食をすませてから眠るまでの間、だれにも内緒で会っている。
夜にひとりで練習しているのを見計らって達海から声をかけることもあったし、練習を切り上げた椿が部屋へ顔を出すこともあった。
達海は電気ポットにお湯を沸かして、インスタントのカフェオレを買っておく。達海の好きなドクターペッパーは、かわいそうに、ほかのだれからも好かれない。マグカップは初めてふたりで出かけたときに買ったものだった。年甲斐もなく浮かれて、色ちがいのお揃いにした。はたちの男の子になったみたいな気分だった。
いつからか、はっきりとはわからないけれど、好かれていると思っていた。確信とまではいかなくても、なかなか自信があった。聞かない話ではなかったから、不思議にも思わなかった。かわいいじゃん。たぶん、最初はそんなふうに思っていた。
それがそれが、きっと悪いくせなんだろう。好かれていると思うと、好きになってしまうのだった。いままでもなんどか身に覚えがある。知らないうちに好きになってた。
達海は散らかった雑誌や新聞を片付けるふりをしながら、歳よりいくらか幼くみえる横顔を覗きこんだ。いまさら片付けても仕方ないほどに部屋は散らかっているから、すこしくらい雑誌を端へよけたって変わらなかったし、そもそも椿はそんなこと気にもしていなかった。それなのに急にちかくにいることが気恥ずかしくなって、片付けを始めてしまって、達海はどうすればいいのかわからなくなってしまった。ばかみたいだ。
テレビは録画しておいた先週の試合を映している。対戦カードは東京ヴィクトリー対ウィッセル神戸。なかなかおもしろい試合だった。後半にはいってすぐ、ヴィクトリーが一点先制した。椿は食い入るように見つめている。気恥ずかしさがやわらいで助かる。でもちょっと、嫉妬しなくもない。
星の数ほどではないけれど、いままでにも何度か恋をした。夢中になって、おぼれて、でも結局はだめにしてしまった。サッカーを愛しすぎていたし、いつも時間がなかった。ほんとうにほんとうに好きだった女の子もいた。十年よりもっと前のことだから、いまでは顔をよく思い出せないけれど、かわいい子だった。だいじにしたかったし、ずっと好きでいてもらいたかった。でもそれも、やっぱりだめにしてしまった。
十五歳の歳の差よりも、立場のちがいよりも、男同士だということよりも、達海には大きな問題がひとつあるように思えた。好きでいてもらえる自信がなかった。
成功した経験がほとんどないくせに、悪いパターンを知り過ぎている。当然いいイメージを描けない。失敗に引きずられてしまう。最悪だ。勝てっこない。
絶望がもやもやと心に絡みつく。ふりほどこうとしていると、ぼそり、消えそうな声が聞こえて顔を上げた。
「……おれ、邪魔じゃないですか」
「ううん。なんで」
達海のまわりだけ、かつてないほど、不自然なくらいきれいに片付いていた。いつかずいぶん前にテレビでみたミステリーサークルを思い出した。
「じゃあ、片付け、おれも手伝います!」
「いや、うん。ごめん」
おいおい、ごめんじゃないよ。なに言ってんだおれ、しっかりしろ。どうも今日はとくに調子がよくないらしい。
昨夜、ベッドにもぐりこんでから、女の子たちのことを思い出の中から引っぱり出しては、あれこれと考えていた。かびくさい古い思い出だった。ほとんど何も思い出せなくて困ってしまった。かろうじて拾い上げたものは、いいことよりも悪いことのほうがずっと多かった。自惚れて恋におちて、気がつくと相手はもう、おれのことを好きじゃなくなってる。それなのに、わたしのことなんて好きじゃないんでしょ、と言う。ふられたのはおれのほうなのに。いまになって思えば、それは当然だったかもしれない。
約束を忘れる。連絡をしない。話を聞いてなくて怒らせることもよくあった。聞いてるの、と言われて、聞いてるよ、と返す。わたしがいま話したこと、言ってみてよ、なんてことになる。おれは見当もつかないから、ばかなことをこたえてよけいに怒らせてしまう。ごめん。聞いてなくてごめん。だいじにできなくてごめん。ほんとうに。
傷つけたと思う。あのころ思っていたよりもずっと。おれは若くて、身勝手で、いそがしくて、サッカーに夢中で、女の子のことも恋のことも、何もわかってなかった。
いまだってわかってるとは言えないけど、すくなくとも、何がだめだったかくらいは、わかるよ。大人になったし、いろんなことがあったからね。
「すみません。おれといても、たのしくないんじゃないかって、不安で」
「おれもいっしょだよ。不安で、困ってる」
作戦も経験も役に立たないのならいっそのこと捨ててしまったほうがいい。ぶつかってみるのも悪くない。失敗しないように注意してても結局だめにするんだからさ、すこしの失敗ではびくともしないくらい、頑丈なものをつくらなきゃ。恋するものよ、勇敢であれ。
「おまえといるとたのしいよ。ちゃんとたのしい。あたりまえだろ。からかい甲斐があるしさ、いちいちあわてたり、びっくりしたり、そういう顔見てるだけでもすげーおもしろいもん」
「……監督、ひどいっす」
「うそだよ。いやうそじゃないけど、でもほんとのこと言うと、一緒にいられるだけでうれしいんだよね」
恰好つけてる場合じゃない。やっとおれは、そのことに気がついた。
「なんかぎこちない感じになっちゃうけどさ。こういうこと、いままでほとんどしてこなかったから、慣れてないんだ」
はは、困っちゃうよな。冗談めかして笑った声は、かさかさして、すこしふるえていた。わかっただろうか。できればそういうところ、見ないでいてほしいと思ってしまう。往生際がわるい。
「だれかを待ったり、だれかのために何かしたいと思ったり、そういうこと」
どきどきしながら話していた。初恋でもないし、青春はずっと昔に過ぎたはずなのに、はたちに戻った気分になる。ばかで身勝手で恐れを知らなかったころ。
目の端でテレビ画面を見るともなしにとらえていた。ヴィクトリーのエースが追加点を決めて、歓声の嵐が巻き起こる。
どう言えば伝わるだろう。椿、おまえに。
「監督は、いつもおれたちのために、考えてくれてます!」
強い声がテレビのざわめきを押しのけて、せまい部屋いっぱいに響いた。
「おれたちのために、勝つための戦いかたを、考えてくれてます」
「……はは!」
まじめな目をして言いきる椿が可笑しくて吹き出してしまった。困っちゃうなあ、かわいくてかわいくて、どうしようか。
がばりとあたまを掴んで抱きしめた。胸の中に倒れこんだ椿の腕が、せっかくきれいに重ねてあった資料の山にあたって崩した。でもいまはそれどころじゃない。泣きそうだったから、顔を見られるわけにはいかなかった。ずっと好きでいてもらうための作戦を、さっそく考えようと思う。
おわり
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