おばけといっしょ


My Sugar Baby Ghost


十年はどくれくらいの長さなんだろう。春と夏と秋と冬がそれぞれ十回ずつめぐって、小学校三年生だったおれが、サッカー選手になるまでの長さ。
そう考えると、とても手に負えないような気がしてくる。監督がイギリスで暮らしていた十年間。うわさはいろいろ聞くけど、ほんとうのところはきっと、だれも知らない十年間。でもそれは、空白なんかじゃない。

きょうで十月もおしまい。ハロウィンの夜、東京の下町には仮装して通りを歩くこどもたちの姿はないけれど、商店街の洋菓子店の舗先やデパートの飾り棚は、かぼちゃのランタンやこうもりや魔女のかたちの影や金色の目をした黒猫が飾られていてにぎやかだった。明日になれば、クリスマス・ツリーやプレゼントの箱や天使のオーナメントやラメでできた星が同じところに飾られて、またすこし寒くなる。
外はまっ暗、八時半。椿はデイパックに詰めこまれたシャツや靴下やタオルを洗濯かごに放りこむと、かわりに白いシーツを押しこんでクラブハウスへと向かった。帰り道の途中に思いついた計画は、部屋のドアを開けるときには大きくふくらんでいて、とても止められそうになかった。だからいそいで準備して、部屋を飛び出した。臆病に追いつかれたくなかったから。
クラブハウスはもちろん明かりが消えていて、ロッカールームにも事務室にもひとの気配はなかった。監督の部屋の前までくるころには、たのしみより不安が大きくなってしまって、足がすくんだ。驚いてくれるだろうか。怒らせたりしないだろうか。迷惑じゃないだろうか。こどもじみてるだろうか。
だけどいまさら引き返せない。椿は強い気持ちでいちどうなずいて、シーツをかぶってから、ドアを二度たたいた。ちょっと待って、と声がして、何かがさりと音がした。
目がまわる。どうしよう。こわい。でも、こわがってちゃだめだ、こわがらせなきゃいけないんだから。どきどきして、シーツのおばけはふるえていた。
ドアを開けた達海は、目の前に白が迫っていて、思わず大きな声を上げた。
「わっ!」
「と……!」
おどろいた声におどろいて、おばけは怯んだ。だから準備していた言葉が、ぱっと消えてしまった。
「は? えっ、なに」
廊下に響いた声もすっかり消えてしまって、静かな夜が戻った。明日からは十一月。しってる。空気はひやりとつめたくて冬の匂いがする。
布越しにくちびるが、にやにやしかけているのが見えた。負けちゃいけない。くじけそうな気持ちをふるいたたせるけれど、うまく声にならない。
「……トリック・オア・トリート」
「ううーん、二十点だな」
ぱちぱちぱち。気の抜けた音が布ごしに聞こえる。達海は手をたたいて椿の勇気を讃えたつもりだった。シーツの裾からナイキのつま先がのぞいている。
「お菓子もほしいけど、いたずらもしたい。おまえはどうしたらいいと思う?」
「……えっ! お菓子もらうのは、俺の役目じゃないんすか」
まさかおどかした相手にお菓子を要求されるとは思ってもみなかった。おばけはくるくる目をまわしている。
「ちがうよ。もしかしておまえ、持ってこなかったの」
「……か、買ってきます」
素直だな、と達海は思う。いとしくなる。だけどすこし後ろめたくもある。将来と可能性、輝かしい若さ。ひとにいえない恋なんてしないでほしい。知らないでほしい。幾度となく考えたことを、また丁寧に取り出して、内容をたしかめ、折りたたんで胸の奥にしまう。
「はは、うそだよ。お菓子は持ってこなくてもいい。だからはやく入りなさい」
強引に肩を、おばけに肩はないからほんとうのところはよくわからないけれど、とにかくふわふわしてるシーツの奥のがっしりしたところを掴んで、達海はすばやくドアを閉めた。ばたん、とおおげさな音をたてて世界はふたりだけになった。つけっぱなしのテレビが耳ざわりだけど、どうしようもない。だってくちびるをはなせない。いまはペペのゴールなんかどうだっていいし、その試合はもう何十回もみたからしっかり頭に入っている。
布越しにくちづけされて、くたくたになっているおばけを、手加減なしの強さで壁に押しつけて抱きしめた。はずみで掛けてあった上着が落ちてハンガーがつま先に当たった。痛かったけれど、もちろんがまんした。おばけはふわふわしているように見えて、でもほんとうは、すこしもやわらかくなんかなかった。骨ばって引き締まった、男のからだだった。はたちの、サッカー選手のからだだった。
「こんなにかわいいおばけ、困っちゃうね」
じゃまなシーツをさぐってめくって、やっと好きな子に会えた。グッバイ、おばけ。あとで洗ってやるから、そこでおとなしくしているんだぞ。

「でもさ、うれしいんだけど、なんでおばけ? 急に?」
「監督、ハロウィン好きなんだと思って」
「俺が?」
「懐かしいって、言ってたっス」
商店街の西の角、洋菓子店の前を通りかかったときのこと。さんかくの目と鼻と口を描いたかぼちゃをみて、懐かしいな、とつぶやいたことを、椿は話した。 やさしい、ことばにできない顔をして、目を細めていた横顔を思う。秘密にしておきたかったからそのことは言わないでおいた。
「だから、気分だけでも」
イギリスはきっともっと、にぎやかだったのだろうと思う。思いおもいに仮装したこどもたち。かぼちゃのランタン。黒猫のかたちの天井飾り。暗闇で光るプラスチックの月と星、毛糸でつくったクモの巣。
監督は、近所のこどもたちにお菓子をくばったかもしれない。それとも、いっしょにお菓子をもらいに行っただろうか。クリームをはさんだビスケットや、きらきらの銀紙に包まれたチョコレートを。
人気者だったにちがいない。みんな監督を大好きだったにちがいないのだ。大人も子供も、みんな。いまごろ海の向こうでは、ちいさな魔女やドラキュラやフランケンシュタインが泣いているかもしれない。
じわりと涙がうかんだ。監督だってへいきな顔してるけど、十年もいたんだ、さびしくないわけない。信頼を、親しみを、だいじにつみ重ねて築き上げたんだと思う。たくさんの時間をかけて、今ここで俺たちにしてくれているように。愛していた場所からこんなに遠くはなれて、どんなに寂しいだろう。
懐かしさの痛みを、椿はよく知っていた。
「わっ、なに、どうした」
「もどりたいって、思いますか」
何も考えないでしがみついた。
「でも、ここにいてもらわなきゃ、困る」
ごめんね、かわいい魔女。ちいさなドラキュラ。監督を返すわけにはいかないんだ。ごめん。
「すみません、何言ってるか、わかんないですよね」
「わかるよ」
抱きしめられたまま、肩に頬をのせて言う。
「やさしいね、おまえ」
胸が痛むのは、残してきたものを好きだったから。好きだったし、だいじに思っていた。十年とすこし前にも同じ気持ちを味わったけど、そのときは離れた場所を懐かしんだり、思い出したりする勇気はなかった。傷をふさぐだけでせいいっぱいだったからね。へいきな顔をして、希望なんかないのに、何も失っていないみたいにふるまった。そうすることで信じこませたかった。俺はまだ、何も失っていない。
「この街が好きだよ。おまえのことも」
遠い場所を懐かしんだり、だれかのことを思い出したり、わるくないかもしれないな。おまえと一緒なら、俺は勇敢になれる。スパイクを履かなくても勇敢になれるんだ。
「……っス」
椿がくすぐったそうなあたたかい声で笑うと、抱きしめてる達海の手のひらの下で背中がふるえた。足もとのくしゃくしゃのおばけと目が合った。
もう強がる必要はなかったから、眉間にすこし皺をよせて、遠く離れた場所を思った。懐かしいけれど、さびしくはなかった。腕の中のあたたかさが心をつよくさせてくれた。目を閉じる。俺は何も失っていなかった。


おわり
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