かたおもい


壜のなかの透明な水

ぱちぱち、へちま水をほっぺたにはたきこんで、鏡の前でため息をつく。鏡台の抽斗からおしろいを取り出して、水で溶き、薄く薄くにせものの肌を塗りこんでゆく。
頬紅はふたつ、持っている。くちべには、もっとたくさん持ってる。あのひとが、俺は男だってこと、わかっていながら、ときおり紅をくれるから。
それなのに女の恰好をしてしごとにゆくと告げれば、いつだって不機嫌になる。女の恰好をしないでも、そういうしごとのときは、あんまり口をきいてくれない。べんりで楽だからそうしているだけなのに、何をどう使って悪事のしっぽを掴んでくるかは、任されているはずなのに。
切り売りするみたいなこと、とあのひとは言った。からだを、切り売りするみたいなこと、するなよ。
もういまさらだから、知らないふりをしていてほしかった。全部、知ってるくせにそんなことを言う。せっかくおしろいを塗っても、目の下だけまた、やりなおし。
手がふるえて、かたん、硝子の壜が倒れた。透明の水に気泡がおよぐ。ぽたぽた、鏡台に雨ふり。もういやだ。頬も、やりなおし。
あのひとは汚いと思っているだろうけど、それでもこのからだのなかの透明な水は、ほんとうにきちんと透明で、あのひとを思うとこうして、溢れてくる。苦しくなって溢れてくる。 そんなこと、知りもしないくせに。なんにもわかってないくせに。
丁寧にくずれたところをなおして、肌はもとどおりになった。かなしさはすこしも減らない。それでも、もとどおり。
お化粧をできたらいいのに、と思う。思う気持ちにも、お化粧をできたらいいのに。そうすればもっとうまく、もっと、あのひとを苦しませないでいいように、振る舞えるのに。
こわい目をして、行っておいでと言う。女の子を心配するみたいに、やさしく言う。そのくせ、きっちり悪さの証拠を掴んでこなきゃ、ぼろかすに叱るのだ。

きしきしと床が鳴いている。足音は、ゆっくり近づいてくる。
「山崎、ちょっと、いいか」
わざと、返事をしなかった。だって、くちべにが、うまくひけない。
「入るぞ」
返事しろよ、と不機嫌な声が落っこちてくる。かまうもんか。
「あとをつけたんじゃ、時間がかかってしまいます。それに今晩、密会所へ向かうかどうかなんて、わかりません。そんなにうまくはいかないもんです。だからこれが、いちばん手っ取り早い。声かけて、酔っぱらわせて、ちょっとでもしゃべってくれたら明日の朝には報告できます。間違っていますか」
あなたにすこしでも好かれたい俺の、これはちっぽけな、わがままだ。いけないと思う。そんなの、わかってる。ふさわしくないし、どんどん情けなくなって、かなしくなるばかり。
だのに、こんなときにかぎって、このひとは殴ってくれない。ひどい。いじわるだ。それがまた、とことんまでに、悔しい。
「おまえに任せてある。好きにしろ。資料、忘れて行ったろ」
かさり、と音をたてて畳の上に紙束が置かれた。今じゃなくってもいいのに、わざわざこないでほしい。
鏡ごしに目が合った。いつもとおなじ、こわい目だ。睫毛が濡れていないことだけたしかめて、すぐに伏せた。
透明の水はずっと、壜のなかにあるほうがいい。溢れて、こぼれてしまったら、もうそれは、透明じゃなくなる。濁って熱くなって、しょっぱい、かなしい水になる。
寂しい川になって、それから雨になって、鏡台に水玉のしみをつくる。だから壜のなかに、だれにも知られないで、閉じこめておくほうがいい。
「すみません。ありがとうございます」
「戻ったらすぐ、報告にこい」
あんたなんか、俺の涙の川でおぼれてしまえばいい。思っても、顔色にだって出さないで、はいよ、とまのぬけた返事をした。
ふすまが閉まり、足音は遠くなった。こうやって別れて、遠くなって、でも会いたくなって、戻ってきたくなって、化粧もしたままで俺は、いそいそと副長の部屋へ向かうのだ。そのために、報告できるような事を、探して見つけて戻ってくる。
声をかけてもらえたら、むこう三日はうれしくて、名前を呼んでもらったら、声を思い出しながら眠りにつく。俺がほんものの女ならって思うこともあるけれど、もしもそうなら、きっと気付いてさえもらえなかっただろう。だから、かまわない。勝手に好きになったから、この気持ちはだれにもないしょの、ひそやかな悪事。
あかい紅は、苦しさも恋も知らないみたいに、肌の上でちいさく笑っている。そういうふうにひいているから、すくなくとも、笑っているように見える。でなきゃ、困る。
あのひとにも、笑っているように見えただろうか。どうか気付かないでいてください。暴かないでいてください。ただ、それだけを願う。きらわれたくない。
「……うそつき」
それでもときおりは、ほんのすこし、すこしだけ、知ってほしくなる。だからわざといたずらをして、あのひとに叱られてみる。ごめんなさい。
殴られるのも、蹴られるのも、ふれてくれるだけでいいなんて、そんなことはほんとうに秘密だ。持っているうちで、いちばんの秘密。どうか気付かずに、ときどきだけ、叱ってください。
鏡台の抽斗に紅をしまい、鏡には女もののてぬぐいをかけた。行燈の光を映して、硝子瓶がきらりと光る。
透明の水のなかにあのひとを閉じこめて、一緒に沈んでゆけたらいいな。こぼれ出してこの悪事を、恋を、知られてしまうよりは、ずっといい。


おわり
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