World's End Winter
コーヒーが飲みたい、と晋助はもう五日も思い続けている。
四日前、雪が降った。おとといには一度止んで、昨日の昼はまた積っていた。
今朝になって、カーテンからそろり、と外を覗いたら、白かった道路や小学校の屋根や向かいのアパートメントのベランダは、いつものそっけなくて野暮ったい、急行の停まらない駅がひとつきりしかないちいさな町、つまり日常に戻っていた。
それでも、寒いことに変わりはない。だから外に出られない。
ついに石油ストーヴの寿命も尽きてしまった。骨がつめたくなってくみたいな寒さ。灯油の足し方がわからないから、仕方なく布団に戻った。さっきまで寝ていた布団はあたたかくなかった。ぜんぜん、あたたかくならなかった。ああ、遭難しそうだ。
しばらくして、晋助はテレビの音で目を覚ました。報道番組がついていた。
今朝、高杉晋助が死体で発見されました。どうやらアパートメントの一室で遭難したもようです。同居人の河上万斉は五日前に出て行ったきり戻っていません。
アンカーウーマンは薄っぺらい、感情のまるでこもっていない声ですらすらと自分の死を伝えていた。そこではっと目が覚めた。夢だった。この部屋にテレビはない。
河上万斉は戻ってきません。
五日前の夜、万斉とけんかをした。原因はなんだったか覚えていない。口論はしょっちゅうだった。大抵は晋助がつっかかって万斉がさりげなく折れる。おおげさに謝るわけではないけれど、三割増しのやさしさで、そうっと歩みよってくれる。いつもなら。
考えるのをやめにして、晋助はのろのろとキッチンまで行き、コップに水を汲んで飲んだ。湯で溶かすだけのインスタントコーヒーくらいなら作れるのだけれど、あいにく買い置きはない。それに、インスタントコーヒーはきらいだ。挽いた豆もフィルターもあるのに、と思うと、うらめしいばかりだった。
ちらしの束をめくって蕎麦屋の出前をとる。これは簡単だ。
それなのに電話を切ったあと、晋助はキッチンにうずくまった。さっき、天ざるふたつ、と言ってしまったから。
どうかしている。甘えすぎだ。いまさらだけど、ごめん。出前さえうまくできない。ばかみたいだ。この寒いなか天ざるなんて。しかもふたつ。あいつはここにいないのに。ああ、ばかみたいだ。
溶けて固まった重たい、べたべたの雪になった気分だった。うんざり。思うようにならない。なんだってそうだ。何もかも、思うようにならない。
もうたくさんだ、と思った。明日、アンカーウーマンが世界の終わりを報道すればいいのに。
世界は今日でおしまいです。河上万斉は戻ってきません。
はは、ばかげてる。
そこへがちゃり、音がした。ドアが開く音だ。でもどうせ夢なんだろう? 期待させるなよ。もう充分、思い知ってる。
「晋助、ただいま。あれ、いないのか」
足音まで聞こえるなんて、と思ったときあたまに温もりがふれた。つめたいのに、あたたかい気がした。
「……なあ、ここにいろよ。おまえがいなきゃ凍えそうだ。どこへも行くな、万斉」
間違えるはずがなかった。帰ってきた。かがみこんだ肩にしがみついたら冬の匂いがした。
「仕事で一週間帰らないと言っておいただろう?」
「聞いてない」
「そうか……それは、悪かった。ごめんね晋助」
たぶん、万斉は言ったはずだった。だから晋助には、すこしも悪くないことはわかっていた。なあ、ごめんっていつか言うから今は代わりに言ってくれ。うまく謝れるようになるまで。ごめんな。ほんとうに、ごめん。
「おかえり。コーヒー飲みたい」
「うん」
ぽんぽん、と晋助の背中を叩いて腕をやわらかくほどく。万斉は慣れた手つきでコーヒーメーカーをセットする。それからベランダへ出て灯油タンクをいっぱいにする。脱がないでいるチャコールグレイのコートを鮮やかにひるがえして、レコードを一枚選び、プレイヤーに納める。
五分もしないうちに、あたたかい湯気と香ばしいいい匂いが部屋じゅうに漂い始めた。ストーヴは赤く燃えて、みるみるうちに空気をふっくらさせていく。レコードはサラ・ボーン。もうすこしすれば蕎麦が届く。ふたつ。
さっきまで遭難しそうだったのに、この部屋はたちまち完璧になってしまった。
「一週間じゃなかったのか」
「はやく愛し合いたかったから、急いで帰ってきた。ひとりで寝るのは寒すぎるな、晋助。晋助、布団行こうか」
ちいさく笑った。インターフォンが鳴った。万斉は驚いた顔をしながら玄関で勘定を払って、浮かれた足取りですぐに戻ってきた。
「俺の分も?」
「ああ。食うかと思って」
そしらぬ顔をして言えば、万斉ははにかんだ笑顔を咲かせた。玄人ぶったサングラスには似合わなすぎる笑顔だった。
うそみたいに幸福な午後。遭難も凍死もせずに済んだ。報道番組の夢は話さないでおく。きっとこの先もテレビは買わないだろう。
世界の終わりのニュースはもうすこし先でいい。
おわり
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